近代小説の祖とも目されるサミュエル・リチャードソンの『パミラ』(1740)の末尾近く、新婚ホヤホヤのパミラとミスター・Bが、ベドフォードシャーの邸宅から爽やかな空気を吸いつつ馬車を駆って近郊の村の農場を訪れるという場面がある。やはりこの農場を定期的に訪れていたミスター・Bの隠し子グッドウィンにパミラが遭遇するという、重大な局面がここで展開するのだが、この印象的な場面は、農場で供されるクリームやバターの新鮮な美味しさに彩られ、それが、グッドウィンを引き取って大事に育てて行こうとするヒロインの純粋な気持ちと見事に調和している。パミラは少女に呼びかける。「こんなに気持ちのいいお出掛けができて、こんなにおいしいクリームやパンやバターが召し上がれるのですものね。」家政に関わる内容を主とする作品だけに、『パミラ』にはたびたび食事の場面が描かれるが、それが「不味い」という描写はひとつもない。イギリスで供される食事は概して不味い、という当今の定評はいつから広まったのかと思わず問いたくなってしまう。
今般、アティーナ・プレスから復刻刊行される『実用料理百科事典』は、あるいはこの謎に答えてくれるかも知れない。ヴィクトリア朝末期の1892年から94年にかけて瀟洒な4巻本として刊行された本書は、「実用百科」の名にふさわしく、全体で約2,000頁、各種の料理はもとより、食材から食器、食卓の装飾や作法に至るまで、およそ15,000に及ぶ大小の項目が整然とアルファベット順に並べられている。その記述は具体的なレシピを含んでいずれも明快にして実用的、しかも食材や調理の歴史の説明にはヘロドトスやプリニウス、タキトゥスらも登場する。巻末には、索引はもちろんのこと、1890年代初頭に開催された主な晩餐会のメニューが掲載されていて往時をしのぶこともできる。モノクロの解説図版がほとんどどの項目に付されており、これに加えて精細な彩色図版も多く、読者はどの頁を開いても、文章からだけではなく視覚的にも食欲をそそられることになる。
当時のヨーロッパを見渡せば、もちろん類書がないわけではない。フランスの料理百科や解説書の充実ぶりは言うまでもなかろう。だが本書は、それらの影響を受けつつも、確固たるイギリスの食文化に裏打ちされた尽きせぬ魅力がある。項目をアルファベット順に並べることなど当たり前のようにも感じられるが、そもそもこの方法を活用して各種の食材やレシピを、専門の調理師にではなく一般家庭で使えるように解説したのは、今日でもその名を冠した料理書の多い、1852年から刊行されたイザベラ・メアリー・ビートン(1836–65)の『イギリス女性のための家庭雑誌』を嚆矢とすると言ってよい。王侯貴族が食する高級料理ではなく、平凡ながらも豊かな自然に囲まれ、その中で育った食材を調達してこれを大事に調理し、笑顔のあふれる食卓に提供する――ビートンのこの精神は、本書の、例えば食材に関する、あるいは食器に関する各項目などを典型として、確実に受け継がれていると言えよう。なるほど本書は編者代表のガレットをはじめ多くの男性調理師の手で編纂されたものではあるが、男性のシェフを中心に完成されたフランス料理とは明らかに異なるイギリスの伝統がここにはある。
もちろん、19世紀末イギリスの食文化が、当時の帝国主義的世界支配に支えられた繁栄にほかならない、ということは、例えば “Sugar” の項を見ても一目瞭然ではある。そうした繁栄があったからこそ、フランスをも凌ぐこのような規模の「実用百科」が多くの読者に迎えられたとも言えよう。だが、イギリスの食事が不味くなるのは、むしろその後の、経済効率を優先させた食品流通とそれに伴う生活様式の根本的な変化によるところが大きい、というのが、例えば『イギリスの食べ物』(1974)の著者として知られるジェイン・グリッグソンの見立てである。なるほど本書には、例えば “Beef” については35頁、“Rabbits” については15頁、“Potatoes” については16頁などと、基本的な食材や料理に関しては詳細な記述がある半面、今日の、例えばいささか観光名物的な “Scones” についての記述は1頁にも満たない。(その代り、“Cakes” については40頁ある。)つまり本書は、帝国主義的世界支配の反映という側面を持ちつつも、大量生産と大量消費の波の中で変質を迫られる伝統的な、そしてある意味できわめて人間的な食文化の最後の豊かな輝きを湛えたものと言えるのではあるまいか。いや、それは「最後の」輝きではない。21世紀を迎えた人間社会において、自然と調和した豊かな生活と人生を実現するための大事な糧についての情報と言うべきであろう。だから本書の読者は、本当に美味しいものとは何かを問い、そして間違いなく、そうした食事を十分に味わうことになる。あのクリームを堪能したパミラのように。