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人びとの望みをかなえたカタログ――通信販売とアメリカ社会――

常松 洋  京都女子大学教授

 通信販売は、現在では日常生活に完全に定着しただけでなく、一般の店舗や他の手段では入手できない商品の提供を誇るまでになっている。しかし、少なくともアメリカ合衆国の事例に照らせば、それは、本末転倒と評するしかないやり方である。1870年代に出現したその新規の小売業は、何より、日用品を中心としてありふれた商品を、とりわけ農村の消費者に、安価で提供することを目的としていたからである。彼らが「望みがかなう本(ウィッシュ・ブック)」として心待ちにするようになったのは、そのような商品を掲載したカタログだった。

 大陸国家を形成しながら発展したアメリカでは、郵便によって商品を入手する行為は、珍しいものではなかった。植民地時代からすでにそのような取引はなされており、南北戦争(1861–65年)の頃には、服地、ミシン、農機具、書籍、時計と宝石、医薬品や楽器など数多くの商品がこの方法で注文・購入されていた。しかし、のちの通信販売と違って、どの会社も一種類の商品しか扱っていなかったし、通信でのみ販売を行っていたわけでもなかった。現代的な通信販売業は、どのようにして誕生したのだろうか。

 19世紀後半のアメリカは、それまで以上に急速な経済発展を経験した。大陸横断鉄道の完成、鉱山資源の発掘、石油や電気といった新しいエネルギー源の開発、エジソンに代表される発明の数々によって、イギリスを抜いて世界一の工業国へと変貌を遂げる。労働力不足のため、もともと省力的・効率的な製造体系が追求された国だったが、大量生産体制も整えられてゆく。世紀転換期には、大量生産に裏打ちされた近代的な大量消費が現実のものになり始めた。しかし、大量生産が大量消費に直結したわけではない。

 大陸横断鉄道をはじめとして交通網の整備は進んだが、広大な国土を覆うにはいたらなかったから、流通網の整備は製造業の発展にはるかに後れを取っていた。製造業者は、製品販売や販路の開拓に関して、卸売業者とその代理人である外交員や販売員に頼らざるをえず、その結果、販売価格が高騰することになる。卸売業者は自己防衛のため、過剰在庫を嫌ったし、新製品にも消極的だった。小売業、とりわけ農村の雑貨店は、地域住民には不可欠だったが、高価格、品揃えの貧弱、値段の不明示といった問題点も抱えていた。

 本格的な通信販売は、1870年、メイン州オーガスタでアレンなる人物が始めたとされているが、最初にその事業を軌道に乗せたのは、シカゴで1872年に起業したモンゴメリ・ウォードだった。ほぼ同時期に、東部や中西部の百貨店による通信販売も始まっている。通信販売と百貨店(そして20世紀に出現するチェーンストア)には、単一価格と正札販売、商品の回転を早くすることで可能になった多売による相対的な廉価、部門化という特徴が共通していたが、それらは不特定多数の消費者獲得には不可欠の戦術だった。

 同時に、通信販売出現の背景には、農村住民の強い消費欲があった。彼らは、マス・メディアを通じて、あるいは比較的近い町の百貨店で実際に買い物をして、消費文化に触れていた。しかし農村や田舎町の小売店は、上述のように、彼らの欲求を満たすにはほど遠い存在だった。彼らの不満の一部は、1867年に結成されたグレンジ ― 正式名は「農民の守護者」― を通じての共同購入で解消されることになる。その組織は、製造業者や卸売業者から直接、大量に、現金で商品を購入して3040%の値引きを実現した。

 モンゴメリ・ウォードは、その手法や農民の消費への憧れから示唆を得ただけでなく、グレンジの人脈を通じて通信販売業を軌道に乗せてゆく。そうでなければ、通信販売が短期間で社会的に認可されることはなかったろう。本集成第1巻に収録されたモンゴメリ・ウォード社のカタログの表紙に、“Original Wholesale Grange Supply House”(「本家グレンジ御用達量販店」とでも訳せるのだろうか)と銘打たれているのは、両者の関係をよく示している。通信販売普及の理由の一つを雄弁に物語る史料と言えよう。