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ヴィクトリア朝初期の社会を映し出す「日常生活実用百科」

植松 靖夫 東北学院大学教授

 トマス・ウェブスターが10年の歳月を費やして執筆・編纂したヴィクトリア朝初期の「日常生活実用百科」がいよいよ復刻・刊行されることになった。

 本書は「家庭」を中心とする日常生活の「ヒント集」であり「手引き」であるが、実用一点張りのマニュアルとは違い、社会的地位の高い者にふさわしい知識の提供も目指している。つまり、きちんとした教育を受けていない使用人などから得た不正確な聞きかじりの知識ではない、一家の長たる者にふさわしい、家庭の運営・管理についての「理論と実践」を読者に伝えるべく構成されているのである。

 ヴィクトリア朝初期といえば、まだダーウィンの進化論が社会全体に大きな衝撃を与える前であり、医学ではチフスやコレラの原因が「細菌」にあることは知られていない時代である。また、労働者の子供には学校教育は不要とする見方が依然として強い時代であり、自分の名前も書けない人が男性で3割以上、女性で5割ほどいた識字率の低い時代である(無論、自分の名前が書けたからと言って、読書の保証になるはずもない)。さらに、炭鉱と工場での女性・子供の悲惨な労働状態を明らかにした『ブルー・ブック』が功を奏して、労働条件は改善の方向に向かっていたが、居住環境は相変わらず劣悪で、E. チャドウィックの『労働者の衛生状態』が大きな原動力となって「衛生」への関心が高まり、汚水溜め・下水溝・水質などの問題が真剣に取りあげられるようになった時代である。「功利主義」が浸透し、労働者の能率を上げ、発明家と技師の数を増やすための成人教育を促す目的の協会が設立されたりもしている。著者のウェブスターが科学的知識の普及を目的の一つとしていた「王立研究所」に関わっていたことも忘れてはならない。

 このような時代背景を念頭に置きながら、著者の説明や使っている言葉にも注意を向けると、ヴィクトリア朝の「中期」や「後期」との大きな違いも実感として理解でき、貴重な「生(ルビ=なま)の声」を聞き取ることもできる。

 類書との比較ができるように、取りあげられている主なテーマを少し詳しく並べてみると、(1)「自宅の建築(土壌などの立地条件・間取り・建材・基礎工事・外壁・屋根・窓・ドア・マントルピース・ベランダ・バルコニー)」で、ここでは建築様式の歴史的な変遷をたどりながら、実際に家を新築する場合に参考になる実践的な知識が得られるようになっている。特に排水溝については専門家ならではの細かい注意がなされている。(2)「暖房」については知識人でもよく理解していないことを指摘して、「暖房の方法・暖房器具・煙突掃除」を中心に解説し、薪・炭(とイギリスでのその作り方)・石炭・石炭ガスなどの「燃料」の経済性と火力にも触れている。(3)「換気(ventilation)」について。この問題は重要視され始めてきているが、理論を知っていなければ実践できない。例えばパンの焼き方・ワインの作り方を誰もが知っている必要はないかもしれないが、その原理や基本を知るのは楽しいだろうと、様々な分野の知識のつながりを知ることの重要性を説きながら「換気」の原理を解説。(4)「照明」の項では光の性質を図解し、炎の性質・ロウソクの種類・ランプの原理と種類・ガス灯などの説明があり、「ランプの歴史」と主要な照明器具については本書でしか得られない情報が満載されている。(5)「家具」では様々なテーブル・ソファ・椅子・机の詳しい図解があり、磁器・ガラスの歴史・食器も取り上げられている。(6)「召使とその仕事」(7)「食物」では肉・魚・野菜・果物・香辛料を扱い、化学・生理学を引き合いに出し、栄養を科学的に説明して理解をはかる方針がみられる。単なる「レシピ」を羅列するのではなく、さりとて小難しい「理論」を振り回すのでもなく中道を目指し、特に一般読者には無視され、もっぱら医者の手にゆだねられてきた分野に読者の目を向けようとしている。また、食材と料理法の理論については、調理の仕方とは区別して説明している。具体的な細かい調理法よりも、理論面を知りたい読者が多いだろうとの考えからである。(8)「飲み物」は、まず水について。軟水・硬水の性質、雨水・湧き水・井戸水、水の濾過方法。次いで発酵と醸造で、ワインはもちろん、cyder, perry, meadの具体的な製法もある。酒についてもブランデー、ラム酒から始まって、Arrack、各種のリキュール類、お茶、その成分と効用、コーヒー、さらに砂糖の種類にまで説明が及ぶ。(9)「台所」の関係では、調理方法・調理道具・食品の保存から、肉の名称・切り方、コース料理の手順まで載っている。(10)「イギリス料理」のレシピに加えて、イギリス料理とフランス料理の比較もされている。デザートについても詳しい。そのあとで、わざわざ(11)「倹約家と病人のための料理」を別項目で詳述しているのも面白い。(12)「衣服」は一般的な素材と仕立て方・染色、帽子・手袋・靴下についても説明。(13)「化粧」(14)「宝石」(15)「洗濯」の項では石鹸・水・糊・乾燥・アイロンかけ・洗濯機(無論、現代のような電気洗濯機ではない)そして染み抜き。(16)「馬車」はその歴史から説き起こして、構造・種類へと説明が及ぶ。この項目は本書の中では「照明」とならんで特に力が入っている。(17)「食料品貯蔵室」と表層的に翻訳されることが多い “stillroom”の本当の姿が実用的な見地から詳述されている。(18)「乳製品」に関しては、製造するための建物とバター・チーズなどの製造について。(19)「家畜」最後に(20)「健康」について。健康と薬、健康を守るための子供部屋についての指針。子供の病気。 “bathing”の種類と効用と並んでいる。

 常に「理論」と「実践」のバランスに配慮しながら説明し、「序論」を展開してから個々の具体的な内容に進んでいく著者の議論には説得力があるので、なるほどと納得しながら、つい先まで読み進んでしまう。知的な刺戟も魅力である。

 「巻末」の索引も各項目が手短かに整理されていて、例えば  “Tea ““Wine”の索引には “adulteration  of”の記述が見られ、既に法律で禁止されていた「混ぜ物」「水増し」の問題にも触れているのがわかる仕組みである。

 文学的な時代考証の資料としても、思想史・社会史・生活史・技術史の資料としても貴重な文献の刊行は欣喜の至りである。