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「家庭の天使」指南書か「亭主操縦法」か?

山口 みどり 大東文化大学教授

 

 『イングランドの女たち』(1839)は、ヴィクトリア初期の代表的な女性向け指南書である。「女たち(women)」という言葉が示すように、著者セーラ・スティックニー・エリス(1799–1872)の対象としたのは上流の「レディ」ではなく、産業化の波に乗り富を蓄えた商工業者や下層専門職の家庭の女性たちであった。新興の不安定な立場にあるこの階層を対象とした指南書は多いが、なかでも同書は出版後たちまち大成功をおさめ、24版を重ねている。エリスは続けて同書の主張をより詳細に記した『イングランドの娘たち』、『イングランドの妻たち』、『イングランドの母たち』の3冊を出版した。今回復刻されるのは、この4点である。女性に良妻賢母として男性への服従するよう説くエリスの著作は、エリス自身の姉妹をも憤慨させたといい、その後もフェミニストの間では不評であった。しかし現在、フェミニズムの「読み直し」が盛んに行われ、これまで軽視されてきた保守層の主張や著作にも目が向けられている。エリスの著作も、新たな目で読み直すときではないだろうか。

一連の指南書では、女性が社会的にも法的にも男性に劣ることが繰り返し強調されるが、一方で家庭に閉じこもることで世俗的誘惑に晒されない女性は、道徳的な優位性を得るとされる。家庭が神聖視され、女性の家庭への「囲い込み」が起こったこの時期、エリスは男性と女性との領域の区分を支持する立場から、女性の立場の強化を図ったともいわれる。この立場は、自分の主張に女王による統治と帝国拡大という時代性とも巧みに結びつけられる。『イングランドの妻たち』は新婚のヴィクトリア女王に献呈されたが、誕生したばかりの若き女王は、その道徳性と家庭性により、とりわけエリスが対象とする中流階級に圧倒的な支持を受けた。エリスはイギリスという国家の道徳的特性を称賛すると同時に、女性をその源と位置づけ、帝国の未来に家庭内における女性の道徳的影響力が持つ意味を強調した。こうした時代を生きる女性キリスト教徒として「義務」を果たすため、女子教育を改善する必要も強調される。

女性の場として家庭を礼賛し男性への服従を説きながら、著者エリスは、実はかなり独立心の強い女性であったようである。裕福なクエイカー教徒の家庭に生まれ、当時の女性としては恵まれた教育を受けている。父親の財政悪化に伴い、反奴隷制や禁酒をテーマとした文筆で身を立てるが、宗教的・道徳的作品の範疇に留まりながらも「売れる」作品を心がけていたようである。その後、会衆派牧師ウィリアム・エリスと結婚。一連の著作での知名度を活かして非宗派の女子校経営にも乗り出した。晩年に夫妻が移り住んだ屋敷は、ほとんど彼女の稼ぎで購入したものであった。

こうしたエリスのビジネスウーマンとしての顔を考慮すると、指南書も額面通りには受け取れまい。当時の『パンチ』誌は、エリスの指南書を「男性操縦法」と読んでこう揶揄する。「男性陣が私たち女性の弱さと呼んでいる点は、我々の最大の強みです。夫にあなたが世にも繊細にできていると思わせ続けなさい。そうすれば大事にしてくれるでしょう(Punch, vol. 7, 1844)」。実際、言葉のうえではへりくだっているものの、男性に対するエリスのまなざしは、かなり「上から目線」である。既婚女性には法的・経済的人格が認められず、財産は持参金も結婚後に自分が稼いだものも含めてすべて夫のもの。ミドルクラスの女性には就ける職種も限られ、夫には妻を監禁する権利さえある――こうした状況下で「うまくやっていく」にはどうしたらよいか。エリスのテーマはこの辺りにあったのかもしれない。