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漱石とHogarth
「此ホーガースと云ふ人は疑もなく一種の天才である」(夏目漱石『文学評論』)

仙葉 豊 関東学院大学教授

 漱石がロンドンの留学から帰国して最初の講義が『文学形式論』や『文学論』というやや硬い形のものになったのはよく知られているが、その次に漱石が講義の対象に選んだのは18世紀の文学に関してのものであり、これは、後年に、『文学評論』という形に結実する。つまり、小説家以前の漱石は最初の18世紀イギリス文学者でもあったのであり、このことはあまりよく知られていないのではなかろうか。

 最初の『文学論』などの講義が例の (Ff) というはなはだ難しいものになって、生徒間に評判が悪いことを自覚したせいか、『文学評論』では、より分りやすい講義の方法をとることになり、まず政治や哲学や思想史などを概観したあとで、「社会の風俗を叙述して、十八世紀はこんな者だと云ふ図絵を与えておいて」、しかるのち本編の文学を述べるという漱石である。このような、イギリス18世紀のなまの「風俗」と「図絵」を生徒にみせるときに役に立ったのがHogarthの画集だった。おそらく教室に実際の画集を持ち込んで、「前代の事を一つの絵画として見、一つの活動せる社会として見る」というような説明方法をとったのではなかろうか。漱石は最初のHogarth導入者でもあったのである。

 現在、漱石文庫として残されているHogarthの画集は、J.Trusler編のThe Works of Hogarth (1833) だけなのだが、ひょっとすると他の版もあったかもしれない。Truslerのものは、今はリプリントでも手に入るのだが、この頃のHogarth学がどのようなものであったかはなかなか分らない。何かいいものがないだろうかなどと思っていると、今度、Henry B. Wheatley Hogarth’s London (1909) が復刻されるという。この本は、書誌学者Wheatleyが書いた当時の最高のHogarthの研究書といってもいいもので、漱石が『文学評論』中でその名前に言及している、碩学Austin DobsonWilliam Hogarth (1891) と並び称されているものである。また、アティーナ・プレスから同時に復刻されるThomas WrightCaricature History of The Georges (1868) も、18世紀の主だった事件を題材にした風刺画の歴史が多くの図版とともに要領よく概観されているものであり、Hogarthの生きた時代のヴィジュアルな歴史のコンテクストを、現在もなおわれわれに与えてくれているという点で大変貴重なものである。筆者自身としては、19世紀末から20世紀初頭の漱石の生きていた時代のHogarth学をもう一度眺め返しながら、『文学評論』を読み直してみるのも悪くはないと思っている。

 ちなみに、漱石が『文学評論』を書く際の風俗史的な側面の参考書として挙げているA. BarbeauLife and Letters at Bath in the Eighteenth Century (1904) は、このシリーズの第3巻として復刻される予定である。