Athena Press

 

食の快楽、知性の愉楽
――豊饒な英国生活文化を味わう現代的意義――

原田 範行 東京女子大学教授

 イギリス食文化をテーマとする、アティーナ・ライブラリー・オヴ・イングリッシュ・スタディーズ待望の第13シリーズ(全5巻)および第14シリーズ(全5巻)が刊行された。 第13シリーズに続く、この第14シリーズは、6点の名著を正確に復刻したもので、第13シリーズが古代・中世から20世紀初頭に至るイギリスの食文化の変遷と特色を通史的にまとめることに主眼を置いているのに対して、 この第14シリーズは、イギリス食文化の豊饒にして多様な広がりを、あたかも読者を食卓にいざなうかのように体感的に伝える文献を適切に選び出してシリーズとしてまとめたものである。 英語にはgastronomy(美食学)という言葉があるが、食を媒介として輝く人間の知性と文化の輝きの諸相が、この第14シリーズには豊かに収められている。

 本シリーズを強く推薦し、私自身、ぜひとも手元に置いて常に参照したいと願う理由は、少なくとも二つある。 一つは、本シリーズに収められた名著6点によって、食の快楽と知性の愉楽を、妙な現代的学問分類などによってばらばらに切断されることなく、包括的に堪能できるからだ。 例えば、本シリーズに収められたFrank Schloesser, The Greedy Book: A Gastronomical Anthology (1906) の第3章「キッチンの詩人」には、次のような一節がある。 「将来刊行される選集には、キッチンの選集が含まれるべきでしょう。多くのことがこれまでに書かれ、今やそれが編纂されるのを待つばかりなのですから。 著名な詩人でキッチンのことを書いていない人などまずいません。シェイクスピア、バイロン、ベランジェ、ブラウニング、バーンズ、コールリッジ、クラブ、ドライデン、ゲーテ、ハイネ、ランダー、プライアー、 ムーア、ロジャーズ、ヴィヨンなどはもちろん、これと並んで参照されるべき詩人は数多くいるのです」― ここに名前のある詩人だけでも、時代的にはルネサンスから19世紀末まで、地域的にはイギリスのみならずフランスやドイツを含んでいる。 シェイクスピアやバイロンといった個別作家の研究ではなく、シェイクスピアやバイロンが、例えば、ベランジェやヴィヨン、ゲーテやハイネと同時的に想起されるところに意味がある。 食文化は、人間の生活文化の基層にかかわり、それゆえその表象は、時空を超えて多彩な広がりを見せる。その広がりと多様性こそが、食文化の真髄なのである。 そういう広がりを前に、もし何らかの逡巡や躊躇を覚えるなら、それは、あらゆる面で専門分化をよしとする奇妙な習慣に浸りきった現代の私たちが、文化の持つダイナミックな創造性を忘れかけていることの現れとも言えよう。 それは人間が人間であることを忘れかけている、ということでもある。

 このシリーズに見られる多彩な広がりは、もちろん、詩人に限ったことではない。本シリーズには、Elizabeth Robins PennellとMrs de Salisという二人の女性作者による著書が含まれていて、 そのことにより、従来、男性作家の文章に限られがちであった美食学を、ジェンダーの枠組みをはるかに超えたものにしている。 The Feasts of Autolycus: The Diary of a Greedy Woman (1896) の序文において、「キッチンにはサッフォーが必要だ」(サッフォーはギリシャの女流詩人) と自著の意義を高らかに唱えるペンネルの文章は、本シリーズの中で、シェイクスピアやバイロンと交わり、豊かな果実を私たちの生活と思索にもたらしてくれる。 18世紀イギリスの文豪サミュエル・ジョンソンがいささか否定的に言及していたハナ・グラスの美食学の著作も、ここでは生き生きと蘇っている。そういう広がりを原典で読めるのは、実に魅力的だ。

 個別の詩人を超え、ジャンルを超え、社会的差別や区別も超え、時空も超え、人間の生活文化の基層が美食学を手がかりに姿を見せる―ここに、本シリーズをひも解く大いなる醍醐味があると言ってよい。 それは、高度に産業化され、人間の生活文化が私たち自身の手から乖離しつつあると言ってもよい現代にあって、人間の営為とは何か、生活から生み出される文化の本質的な力とは何かを、 余すところなく教えてくれる。本シリーズに収められた6点の名著が、いずれも19世紀後半から20世紀初頭にかけて刊行されたものであることの意味はここにある。 現代社会を考えるためには、現代社会が有するもろもろの束縛をいったん解き放ってみなければならないからだ。 ちなみに、本シリーズに収められた文献に、「イギリスの食事はまずい」などという含意はまったく見られない。シェイクスピアを生み、バイロンを育てたイギリスの食文化が貧弱であるはずはないのだ。