Athena Press

 

謎の男の社会史John Ashtonと近代イギリス

小林 章夫 上智大学名誉教授・帝京大学教授

 ジョン・アシュトン(John Ashton, 1834-?)には随分お世話になった。たとえば『チャップ・ブック』という本を書いたとき、この人物が編集したChapbooks of the Eighteenth Century (1882)は常に手元にあって、「ほーっ、こんなのがあるのか」といろいろページを繰った覚えがある。いや、それだけではない。18世紀の社会や文化、人々の生活について調べるときには、彼が書いた本がさまざまなエピソードを載せていて、これが大いに役だったのである。何しろ、18世紀、19世紀の有名な新聞、雑誌に始まり、さらに珍しい本や雑誌からも文章や挿絵をかき集めてきて、それを惜しげもなく著書や編著に収めてくれるのだから、便利なことこの上ない。私塾などで子どもが使った教科書はどんなものか、ニセ医者にはどのような人間がいたのか、有名な決闘にはどんなものがあったのか、通常の「まじめな」社会史では扱わないような情報が、それこそ満載されているのである。これを使わない手はあるまい。

 そのアシュトンの手になる18世紀、19世紀イギリスの社会史が、今回6冊復刻されるというのは、近来の快事である。18世紀初頭のアン女王時代に始まり、18世紀末の社会史を同時代の諷刺画などを通して描いたもの、さらには19世紀初頭のいわゆる「摂政時代」からヴィクトリア朝初期の時代を、この6冊の本は同時代資料をたっぷりと盛りこんで、われわれに生き生きと伝えてくれる。どれも大部な本だが、興味に任せてあちこちとページを繰っていても、いろいろとおもしろいネタが転がっていて、決して飽きることがない。

 もう一つアシュトンの特色は、あまり自分の意見を差し挟まず、資料をそのまま提示して、読者が時代を自ら追体験できるようにしていることで、その意味では資料の出し方は惜しげもないが、資料の解釈については妙に禁欲的な人物と言えるかもしれない。しかしそれが逆に、偏見のない目で資料を読むことを容易にしてくれるのだ。

 だがそれにしても、このアシュトンという男、いったいどのような人物だったのだろうか。何しろ彼に関しては、少なくとも筆者の知る限り、ほとんど情報がないのである。あの『オクスフォード版英国人名事典』にも出てこない。一時、いろいろと調べてみたのだが、結局1834年に生まれたらしいことしかわからなかった。ひょっとすると、誰かのペンネームかとも思ったが、これもはっきりしない。しかしそんな謎の男が残してくれた社会史は、今も十分に利用価値があることは間違いない。