たとえば馬上槍試合、流鏑馬、競馬。洋の東西を問わず、古来、馬は人間に寄り添い、その文化形成に関わってきた。近代英文学の傑作『ガリヴァー旅行記』(1726年)にも、馬はたびたび登場する。フウイヌム(馬の国)はもちろんだが、リリパット(小人国)で、ガリヴァーが皇帝のために考え出した遊びもそうだ。四方に立てた棒にハンカチを結びつけ、その上でリリパットの騎兵隊が模擬戦をするという、あの場面である。
面白いことにガリヴァーの考案したこの遊びは、半世紀後、故郷イギリスで現実のものとなる。しかも、皇帝の慰みではなく、広く庶民に支持された娯楽として、である。1770年、元騎兵フィリップ・アストリは、テムズ川南岸サザックに粗末な舞台小屋を建てた。かつてのグローヴ座からもそう遠くはない。舞台に上がったのはジブラルタルという白馬。イギリス海軍の拠点と同名の馬が舞台に上がり、巧みな芸当を見せては観客がこれに喝采を送るというわけである。のちに「アストリの円形劇場」として一世を風靡した大衆劇場はこうして始まった。ジェイン・オースティンの『エマ』(1816年)で、ロバート・マーティンとハリエット・スミスが観劇したのも、この「アストリの円形劇場」だ。
近代イギリス文化を考えるポイントの一つは、庶民が文化の形成に実質的な関与をしていた、という点である。ジャーナリズム、コーヒーハウス、小説の誕生、出版の自立、民主政治のはじまり、公共圏の成立といった事象に象徴されるように、社会の諸制度と文化が、啓蒙専制君主によってではなく、庶民の間で自然に醸成されていく。まさにこの過程をはっきりと見て取れるのが、「アストリの円形劇場」のような娯楽としての大衆演劇の勃興であると言えよう。周知の通りイギリスでは、王政復古後、チャールズ2世がトマス・キリグルーとウィリアム・ダヴィナントの二人に劇団設立の勅許を与え、それぞれが、「ドゥルアリー・レイン」「コヴェント・ガーデン」という名劇場に発展した。だが、この二大劇場は、特権が廃止される1843年に至るまで、本格的な演劇の上演を独占してしまう。シェイクスピア劇もそうだった。おまけに1737年には、演劇に関する事前検閲法が施行され、反体制的な中小の劇場ならではの風刺劇や笑劇はほとんど壊滅してしまうのである。ところがここで終わらないのが、イギリス庶民文化の底力。18世紀末には、中小の劇場が息を吹き返して演劇の形態が多様化し、逆に二大劇場の方が、庶民の享受する多彩な演劇文化に対応しきれないという事態に追い込まれていくのである。「アストリの円形劇場」は、まさにこうした新興演劇の代表格であったというわけだ。
「イギリス研究基本文献シリーズ」第8部として今回復刻刊行される4点は、こうしたイギリス大衆演劇と庶民文化の勃興を詳細に記した一級資料である。History
of the London Stageは、3世紀半にわたる演劇史の最も基礎的な文献の一つで、中小の劇場を含め、記述は精密そのもの。London’s
Lost Theatresは、大衆演劇の勃興を支えつつも姿を消した小劇場の盛衰を劇場ごとに記したもの。The
Struggle for a Free Stage in Londonは、二大劇場の繁栄と変容をもたらした勅許制の光と影を明快に論じた先駆的研究書。そしてThe
Annals of Covent Garden Theatreは、変革の時代を生き抜いた名劇場「コヴェント・ガーデン」の詳細な記録である。いずれも20世紀初頭に刊行されているが、これが今日重要なのは、これまで述べてきた大衆演劇と庶民文化の息遣いがなお現実に感じられる時代にあって、その詳細を後世に残そうという強い意志が反映された文献であり、二つの世界大戦を経て大きく変容した現代のロンドンを念頭に構築されるものとは全くと言ってよいほど質の異なるものだからである。しかもこれらの文献は、重要な資料を包括的に収めていながら、今日入手しようとすると、海外の大学図書館でも困難なものが少なくない。
それにしても、こうした文献を手元に置いて19世紀末に至る大衆演劇の歴史と文化を考えるとき、「皇帝を楽しませるため」というあのガリヴァーの発案に、実はそういう専制君主制文化の限界をはるかに予見していたかのような作者の諷刺さえ感じられてくるではないか。イギリス大衆演劇というテーマは、庶民の底力を得て、連綿と受け継がれ無限に広がっていく文化の魅力を深く湛えているように思われる。