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優生運動の比較研究から現代を問い直す

松原 洋子 立命館大学教授

 優生運動は、人間の「生まれながらの性質」に着目して、社会変革や社会防衛、民族や国家の覇権、あるいは「良い子」に恵まれた家庭の幸福を目指す、思想運動・政治運動である。19世紀末にイギリスとドイツで同時発生的に出現した優生学は、20世紀初頭に知識人や中産階級市民の支持を得て、ヨーロッパ、北米のみならず、ロシア(ソ連)、南米、アジアに至るまで波及した。また、女性が積極的に参加したことも、優生運動の特徴であった。

 エキセントリックな差別論や擬似科学が優生学の象徴だとする見方は、すでに過去のものである。1970年代以降進展した優生学史研究は、当時第一線で活躍していた様々な政治的信条を持つ知識人、科学者、政治家、社会運動家たちが、それぞれの立場で優生学に注目し、優生運動を生真面目に推進する姿を描いてきた。また、優生学といえば強硬な遺伝決定論、あからさまな人種差別、「劣っている」とされた人々への断種の強制、国家的な優生政策などが連想されるが、それと並行して環境要因を重視し、優生学的行動の自発性を尊重する論調もまた、優生学支持者に根強く存在していた。そこでは、生殖への人為的介入による人類改良を目指すという共通性をもちながらも、意見の対立や非難の応酬があった。1980年代以降は、優生運動の担い手や地域による、優生思想の多様性と複雑性が比較研究を通して注目されている。

 本資料集は、イギリス優生学史研究で知られる医学史家マツムダーが、優生学史の最新の研究動向を踏まえた編集方針のもとに、膨大な関連文献から資料を精選したアンソロジーである。組織的な優生運動の最盛期であった20世紀前半を中心に、アジア以外の主要地域における代表的な論説が取り上げられており、全て英語で読めるようになっている。優生学の土台となったノルダウの退化論にはじまり、貧困と社会病理・「優れた階層」の少子化問題・移民制限などを優生学から論じたもの、遺伝学者や精神医学者による品種改良や遺伝理論、人類遺伝学をめぐる議論、左翼的遺伝学者による優生学批判、優生学批判の教皇の回勅などが採録・抜粋されている。また、ソ連のルイセンコ論争、フランスの環境要因重視の産科医の育児論、ブラジルの人種混交の肯定、カナダの強制断種に関する1980年代の報告書等など、地域の特性を知ることができる資料が魅力的である。

 本資料を通じて、われわれは当時の人々が「優生学」を手がかりに問題解決に格闘した、多様な思考の道筋をたどることができる。そして、彼らの課題であった移民・少子化・貧困などの諸問題へ取り組み、病気・障害の発生予防、科学啓蒙と科学の応用による社会改良などは、現代の課題でもあり、その理解や解法の根底に優生運動と通底する要素が確かに存在することを見出すのである。優生学という問題系は過去の遺物ではない。優生学の何が問題で、なにを克服すべきなのか、まだ模索は続いている。