ヴィクトリア時代後半から20世紀にかけての時期は、イギリス女性に関するさまざまな定期刊行物が硬軟取り混ぜてまさにオンパレードで刊行された。なかでも今回復刻のジャーナルは各方面からとりわけ強く求められていた重要稀覯文献である。年鑑The
Englishwoman’s Year Book and Directoryは、第一に女性(当初は主として「ジェントルウーマン」が対象)のための職業機会の情報紹介、次いでは女性の(フェミニストに限定しない)結社、クラブなどのディレクトリである。ラフないい方をすれば、やはり20世紀の諸巻が、非常に有用なレファレンス・ワークであった。
したがって今回復刻されるのは、ニュー・シリーズの1899年から1916年であるが、同誌は1881年にルイーザ・マライア・ハバードによって創刊された。その刊行期間はイギリス・フェミニズム運動の機関誌であったThe
Englishwoman’s Review(EWR)と重なっており、EWR誌が幕を閉じる1910年までほぼ毎年EWR誌で書評紹介されていたから、フェミニズム運動に関わるEWRの読者にも利用されていたことであろう。
EWRの創刊者とその歴代の編者たちと同様に、The
Englishwoman’s Year Bookのハバードとその後継編者たちも間違いなく自ら生計の資を稼ぐ必要のない境遇であったが、切実に有給雇用を必要とする「困窮したジェントルウーマン」、あるいは無為な生き方に飽き足りなくて「働きたい」女性のための職業(プロフェッション)の雇用機会を拡げていくための運動に自らの生涯を投入したのである。「ヴィクトリアン・ウーマン」といえば、何よりも性別役割分業観を自ら体現した有閑女性と見なされがちである。現実にはそのようなステロタイプによる図式的表象は間違いではないが、その類型に当てはまらない、そして極めて「利他的な」女性たちの姿がThe
Englishwoman’s Year Bookの行間から浮上してくるのである。
ハバードの1906年11月末の急死に際して、EWR誌はかなり長い追悼記事を載せている。ハバードは、同性たちの安寧のために長きにわたって精力的に奮闘し、その結果1898年に倒れて、オーストリアに転地して健康回復を図っていたが、その地で急逝したのであった。その1か月前に彼女から恩恵を被った女性たちや同志がハバードへの愛と感謝の念を表すための企画を考案中であると、『デイリー・クロニクル』紙が報じていた矢先の訃報であった。同追悼記事には、ハバードが「他者のために」、「自らの名声のためではなく」、「アンセルフィッシュ」に行動していたことを若い世代の読者に縷々語っている。また、『ザ・タイムズ』にもハバードと次の編者のエミリ・ジェインズの死亡記事が掲載され、前者のものは当時の女性に対しては珍しく長文で感動的な追悼文である。
ところで、同誌がアティーナ・プレスによって、数回の配本に分けて丹念に復刻されることは、購読者・購入機関にとっては有難いことであろう。数回に分けての配本は、同社の慎重で丁寧な復刻作業によるのであるが、購入する側でも入手しやすくなる。現代の読者が、本誌が実際に編集刊行されていた、またそれを利用した当時の女性たちと同じ場に身をおき、彼女たちの思いに肉薄するには、マイクロフィルムも昨今のオンライン版も「復刻」にはかなわないであろう。さらに19–20世紀の世紀転換期の、廉価を追求する定期刊行物には、「酸性紙問題」がつきものであった。女性参政権運動史研究に携わってきた筆者は、個人的資力を超えた運動の貴重な機関誌を現物で全巻購入し、それが酸性紙であったため、ページを繰ることもこわごわで事実上使用困難となってしまい、宝の持ち腐れにまいってしまった経験がある。今回の復刻原本も刊行の時期からして、一部そのおそれがあるだろうと推測する。また、マイクロフィルムの利用も高額な点以外に多くの難点があり、まさに「復刻」にまさるものなし、である。
過去の女性雑誌を繙くことの楽しさを味わったり、いろいろな表象分析を試みたりしながら、過去との対話に専念できることを心から期待したい。