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社会史研究の新たな視角

有賀 夏紀 埼玉大学名誉教授

 

 この3~40年間、政治に限られていた従来からのアメリカ史研究の視界は人々の生活にまで広がった。そして、人々の生活を中心に描き出す社会史研究が歴史研究の中心的位置を占めるようになったとさえ言えると思う。人々の生活を知るには食生活は欠かせないが、この分野は社会史の中では比較的後になってから興隆した。人種・民族、階級、性によって分類される集団の抑圧から解放に至る歴史に重点が置かれた興隆当初の社会史研究では、細微に及ぶ人々の食生活にまで眼が届かなかったこともあるだろう。食生活・食文化の歴史は女性の地位向上という観点から、家事労働、教育、家庭の問題と関連して扱われることが多かった。最近のアメリカ史研究では、食生活・食文化に焦点を当てて、アメリカ経済の生産および消費面、科学技術、移民やマイノリティの文化など社会全体と関連づけた研究成果が増えている。こうした研究で使用される資料は、19世紀以降盛んに出版されるようになった家事指南や家政学の本、料理本、移民の経験に関する文献が主だった。これらの資料を通して、人々はどのような食品をどのように調理し、どのようなスタイルで消費したか、食生活で女性はどのような地位を占めていたか、それらは移民やマイノリティ、労働者階級、白人中産階級、地域によってどのように異なっていたかなどが示された。さらに、科学技術、経済の発展が食生活にどのような影響を与えたかという、より大きなアメリカ社会との関係も明らかにされた。

 しかしながら、これらの研究で主に使われてきた資料は完全とは言えない。というのは、人々が消費する食品は、特に19世紀以降は生産され販売されることにより消費者の手に渡るものになったが、資料は消費者側、すなわちほとんどが女性の家事や料理の専門家、家政学者が書き残したものに偏っているからである。ところが最近、食品小売商向けに書かれた食品に関する案内書が注目されるようになってきた。それらは食品の流通に関わる男性の著述家や広告業者などによって書かれ、当時アメリカに存在した食品や食品市場の詳細な情報がわかるのである。本シリーズはこうした食品ないし食材を、供給する側の文献を復刻して入手しやすくする斬新な企画となっている。

 シリーズは2部全6巻から構成され、第1部は1911年に出版された2巻本の食品百科事典とでもいうべきThe Grocer’s Encyclopediaを所収し、19世紀末から20世紀初めにかけてアメリカで入手された食品の全貌が見られる。そして第2部では、19世紀後半に書かれた4冊の本によって食品、食品市場の状況と歴史を示し、第1部の百科事典に至るまでのアメリカの食品の軌跡を示す。いずれの本も食品店、肉屋などの業者向けに書かれたものであるが、一般消費者にも有益な情報源となっている。以下それらの内容の一端を見てみよう。

 第1部の百科事典は南北戦争後広告業界で成功し、1975年には広告の殿堂入りも果たしArtemas Ward (1848–1925)が30年の歳月を費やしてまとめたものである。アルファベット順に並べられた、外国産も含むあらゆる食品や飲料の解説は当時だけでなく今日にも通用するものである。チーズ、ワイン、茶、牡蛎についてそれぞれ12、20、16、7ページを当てていることでもその詳細さがわかる。食品を害するものとして蟻やゴキブリの項目も入れている。また、カンガルーの尾や寒天の項目があるのには驚く。

 第2部の第3巻第4巻、Thomas F. De Voe (1811–92)著The Market Book (1862)とThe Market Assistant (1867)は、前者が、ニューヨーク市の公設市場のオランダ植民地時代から南北戦争前に至るまでの歴史と発展について、後者が食品とその賢明な入手方法、家庭で雇う料理人の善し悪しの見分け方を扱っている。著者は1840年頃からニューヨークの公設市場の指導的地位にあった食肉業者であり市場の情報誌の発行人でもあった。The Market Bookは公設市場設立の歴史を通して、オランダ植民地時代以降の経済発展、政治環境の中での食品取引、食生活の変化が具体的にわかる。The Market Assistantは実用的な食品入手の手引きと言えるが、食肉業界で長年働き自ら「肉屋」を名乗る著者ならではの食肉に関する説明が詳しい。時代色を示しているのは料理人など家事使用人についての詳細な記述である。市場で購入する際に業者と組んで価格をごまかして自分の懐に入れるずる賢い使用人と悪質な業者、害を受けた主婦の話などが当時の世相を伝えている。

 第5巻P. H. Felker著The Grocers’ Manual (1878)は、食品販売業者向けに書かれた食品その他に関する案内書である。各食品の説明だけでなく、取引されるときの単位、重量などの情報の他、食品添加物ないし不純物についての詳しい解説もあり、加工食品工業が興隆したこの時代すでに、20世紀初頭の食品取り締まり法制定の前兆のようなものがあったことが推察される。

 第6巻Artemas WardによるThe Grocers’ Hand-Bookは、食品業者向けに日常的に必要な食品の知識を提供するために1882年に出版された。その後著者は仕事の合間に図書館などで資料や知識を集めたり、また自分自身の経験も加えたりして、本格的包括的な食品百科事典The Grocer’s Encyclopediaを1911年に出した。本シリーズ1部に所収されているのがこの百科事典である。Hand-Bookと百科事典に掲載された項目を比較して時代の変化を知るのもおもしろいだろう。

 以上、本シリーズは19世紀後半から20世紀に至るアメリカの食文化・食生活に関する情報を食品業界すなわち供給者側の出版物から示しており、人々の食の具体的な内容を知るには格好な資料となっている。食文化・食生活は家政学関連の分野だけでなく、アメリカ史、特に社会史研究全般にわたって活用されることになると思う。