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パリ日常生活史の万華鏡

福井 憲彦 獨協大学教授

 20世紀末から展開した歴史学の刷新は、多様な側面を持つものであった。その特徴の一つは、歴史的過去の日常性のあり方を踏まえて問いを投げかける、という姿勢であった。 たとえば、食糧暴動や一揆について問う場合、その時代にさまざまな社会階層に属する人びとが、どのような食生活を日々送っていたのかを知らずしては、十分な理解は届かない。なにも歴史学に限らず、 文学作品を読む場合でも同様のことは言えるだろう。ところが、歴史をさかのぼって日常生活のあり方を知ることは、たやすいことではない。かつての文献や図像に表現されたところや道具の類を、丹念にたどる以外に近道はない。

 これまでにも、興味深いフランス語文献の復刻を手がけてこられたアティーナ・プレスから、このたびはアルフレッド・フランクランの手になる「私生活」史のシリーズが復刻される。 このシリーズは原著副題に示されているように、12世紀から18世紀までのパリ住民たちの技芸や職業、風俗や慣習に関する、テーマごとの年代順総覧といった趣の、じつに稀有な歴史書である。18世紀までが中心だが、 著者本人の生きた19世紀にも若干言及される。この種の書物は、現在ではあまり書き手がいない。というのも、中世から近世・近代へと、各種文献を熟知して、どこにどのような記述が入っているかを、事細かに丹念にフォローしていないと、 とても記述できない。しかも、そこに解釈を加えて一種の歴史観を提示するかといえば、それよりむしろ、どちらかといえば史料とその内容を列記する形式である。歴史事典の変形版のような趣もある。

 実際フランクランの著作のなかには、13世紀以来のパリの職人世界に関する歴史事典もあって、たいへん重宝なものである。 しかし、1906年に刊行されたこの歴史事典よりも、今回復刻される私生活史シリーズのほうが、 読み物としては断然面白い。フランクランという人物は、歴史家というよりも史料考証の専門家であった。 1830年にヴェルサイユで生まれ、第一次大戦中の1917年にパリに没したが、はじめはパリでいくつかの新聞の文芸記者として活動し、 私は読んでいないが後に小説も書いているそうである。 1856年に、パリの有数の歴史図書館であったマザラン図書館で史料係となり、85年からはその事務局長として勤め上げている。 かのマザランの蔵書を出発とするこの図書館のコレクションは、各種の領域についてたいへんなものであったから、 いわばその宝の山で送られた日々が本シリーズのもとになったのであろうことは、想像に難くない。

 どの巻でもよいのだが、動植物大好きの私は、動物たちがテーマの巻を開いてみる。フランクランは愛犬家だったようで、 「14年の間、我が家の忠実で優しい友であった愛犬トビーの追憶に」この巻は捧げられている。かつても犬派と猫派がいたようで、いろいろと時代ごとのエピソードに事欠かない。 あるいはパリにおける聖ヨハネ祭に関する記述など、民俗学的な関心をくすぐる記述も含まれている。さすが史料整理を仕事としていた人だけあって、 文献注もしっかりしているので、この記述を頼りに原史料にあたることも可能である。いずれにせよ、その使い方は、読み手の関心次第。さまざまな効用が期待できる。 なかなか全巻揃いで手に入れることが困難であったこのシリーズが復刻されることは、フランスの歴史や文学、あるいは文化研究に関心のあるものには有難いことである。 それになにより、肩肘張らずにふらっと読んでも悪くない。