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中世から18世紀までのパリの身体誌

松村 博史 近畿大学教授

 

 アルフレッド・フランクランの『パリの私生活』第4部は、「衛生、医療」に充てられている。パリの過去の私生活を著者が発掘してきた独自の資料をもとにまとめたこの大作が、日本で誰にでも読める形で出版されることは、非常に意義深く喜ばしいことである。だがそれにしても衛生と医療という医学的なテーマを扱ったこの第4部は、全体の中でも地味で難解に思われるかも知れない。ところが読み始めてみると、これが止まらなくなるくらい面白いのである。このパートを構成する5巻のどれを手に取っても、そこに展開される私生活情景の多様さと、著者ならではの歴史の語り口に引き込まれ、一気に読み通してしまうだろう。

 ここに描かれているのは、中世から18世紀に至るまでの歴史や社会が、抜き差しならない人間の「身体」にどのように関わって来たのかという、その様々な様相である。人が集まる都市がある限りは、日々の活動から必然的にもたらされる汚物や、人間自らが生産する排泄物と関わりを持たざるをえない。人は病気にもなれば、怪我をすることもある。また子供を産むこともあろう。こうして「身体」と直面させられるときに、パリの住人、あるいは医者や外科医、その他さまざまな形で医療行為に携わっていた人々は、身体に関わる諸事象をどのように捉え、解釈していたのか。これら5巻から浮かび上がるのは、それらのことである。「身体」をめぐる事象である限り、その記述は生々しいまでに具体的にならざるをえない。

 『パリの私生活』第4部は、「衛生」「薬」「医者たち」「外科医たち」「外科あれこれ」と題された5つの巻からなる。一見したところ無味乾燥なタイトルだが、そこでは、衛生、身体、医療をめぐるテーマが思いがけない切り口で料理され、読者は驚くべき事実や逸話の数々に目を見張ることになる。

 第1巻の「衛生」は、パリという大都市とその時々の政権が、ゴミなどの汚物や排泄物、不定期に襲ってくる伝染病と闘ってきた様子を描くが、それは同時にこの都会についての一篇の景観史、人々が動き犇めくパリの町並みを活写した歴史にもなっている。第2巻「薬」は、中世以来、人間の骸骨から磁石や宝石に至るまで、いかに珍奇な薬が存在したか、それらを扱う薬剤師はどのような人々であったかを饒舌に語ってみせる。また第3巻の「医者たち」では医者たちの生態が描かれる。パリ大学医学部の歴史や、国王の侍医たちの仕事ぶり、それに歴代の国王に対して行われた死後解剖の情景やその中身までが詳しく説明されるだけでなく、正統派の医者たちが占星術や祈祷の効果を大真面目に信じていたことや、巷にあふれていた詐欺師まがいの治療師たちについてもフランクランは余すところなく語っている。第4巻の「外科医たち」で中心となるテーマは、髭剃り師と変わらない職人として差別的な扱いを受けていた外科医たちが、いかに医学部の医者たちと葛藤を繰り広げながら、徐々にその地位を向上させていったかということである。どうやら「歴史の職人」としてのフランクランは、傲慢な態度を示す大学の医者たちよりも、職人としての外科医により共感を抱いていたらしい。最終巻の「外科あれこれ」では、私自身としては歴史を通じてパリ最大の病院であった「オテル=ディユー」の内部やそこで行われていた医療の様子にまず目を奪われるのだが、中世から19世紀まで広く行われていた瀉血や、助産師、歯医者、骨接ぎ師などの仕事ぶりについても興味深い記述やエピソードがちりばめられている。

 最後に、これらの巻のページを繰っていて、時折「歴史家」フランクランが顔を出すのも、『パリの私生活』を読み進める喜びの一つであろう。「かつての時代における限りなく微細な事柄」を追究する歴史家として、「同時代の資料によって確かめられない事実は何一つ書かない」ことに何よりもこだわる。だがガチガチの考証家ではなく、しばしば珍奇な事実を嬉々として語る愉しみに身を任せ、フランス人らしいクラン・ドゥイユにも事欠かない。フランクランの語りによって「身体」と「医」を通して見る過去のパリは、意外なほどに鮮烈である。