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『ハームズワースの家庭生活百科事典』
20世紀初期イギリスの「理想の住まい」ブームとポピュラー・ジャーナリズムの交叉

菅 靖子 津田塾大学准教授

 「イギリス人の家は、彼の城である」とはよく知られた格言であるが、『ハームズワースの家庭生活百科事典−あらゆるホーム・クラフトのための実用ガイド』はまさに家をこよなく愛するイギリスの中流階級の読者をターゲットに編纂された事典である。

 家づくりにたいする関心は19世紀の半ばから一段と高まりをみせていた。それは、内装業者の業界誌や家具商展覧会の開始(1881年)、さらには家庭雑誌で頻繁に家具のショールームがレポートされるようになったことなどにあらわれている。こうした動きのひとつのクライマックスが、1908年に始まった「理想の住まい」展覧会であった。その主催者は大衆紙『デイリー・メール』の立ち上げで知られる新聞王ノースクリフ卿であり、同展覧会は女性の新聞購読者数をのばすための広報戦略として始まった。これは、世界初の商業的なモデル・ハウスの展示会として大きな影響力をもち、全くデイリー・メール社とは関係のないところで同名の『理想の住まい』という雑誌の刊行も始まり、またその評判は海を隔てた明治末期の日本にも届いたほどであった。この展覧会は、今日でも「女王のクリスマススピーチ」や「チェルシー・フラワー・ショウ」とならぶ毎年の恒例行事として続いている。

 「理想の住まい」展では、家づくりに関するあらゆるものが展示されていた。そして、展覧会カタログには、国王ジョージ五世の言葉「国家の栄光の基盤は国民の家庭にあり」が印字され、「理想の住まい」のための消費は、国の形成に一役買うという大義名分も成立していた。

 そして1920年。大戦中の数年間休止していた「理想の住まい」展が再開される。その3年後に刊行された『ハームズワースの家庭生活百科事典』は、戦前に大きな盛り上がりを見せていた家庭に対する関心の高さが戦争によってまったく衰えなかったことを物語る。じつはこの事典の編集にあたったのは、ジャーナリスト、ライターのジョン・アレクサンダー・ハマートン(1871-1949)である。彼は『ハームズワースの百科事典』『ハームズワースの世界史』ほか様々な大型企画の編集でも知られるが、「ハームズワース」がノースクリフ卿の名前アルフレッド・ハームズワースからきているとおり、ハマートンは戦前からノースクリフ卿のもとでポピュラー・ジャーナリズムのキャリアを積んできた人物である。

 この事典の魅力は、豊富なイラストレーションと充実した執筆陣である。全6巻には、1万5千点の図版が挿入されている。家庭を愛する人および「アマチュアのクラフツマン」のための事典、と銘打たれているように、写真だけではなく家具の制作方法についての図解も豊富に掲載されている。また、家の間取りや庭のレイアウト、あるいは部屋の色彩計画などを示した色刷りのページなど、要所要所にカラー印刷も入った贅沢な出版物である。図版は、例えば家具ならヴィクトリア・アンド・アルバート美術館、日用品ならハロッズ百貨店やセルフリッジ百貨店で取り扱っている商品の写真など、最先端の選択がなされており、専門的な解説がつけられている。

 また、「家づくり」に欠かせないアイテムとして猫や犬やウサギの飼い方の説明があったり、室内外で育てることのできるさまざまな植物の栽培法が図解されていたり、一方ではチョコレートを使ったスウィーツならば15種類以上のレシピが掲載されていたりと、日常生活の関心事をまんべんなく網羅しているところが面白い。家庭内の娯楽やゲームの項目も充実しており、チェスの場合はチェス盤の作製法まで掲載されている。もちろん化粧の項目もある。家庭で老若男女が楽しめる事典であったことは間違いない。

 この事典は、当時の生活文化を見事に反映した一次資料である。とりわけこれまで19世紀に比べて20世紀の資料の復刻が限られていたことを思えば、今回の復刻は、社会史、消費文化史、マテリアル・カルチャー研究など多岐にわたる分野で利用価値が高く、きわめて意義深いものである。