Athena Press

 

W. P. フリス著『自伝』と『ジョン・リーチ伝』
―復刻の朗報―

松村 昌家 大手前大学名誉教授

 

 アティーナー・プレスから、新企画ライフ・ライティング・シリーズの一環として、William Powell FrithMy Autobiography and Reminiscences (188788) John Leech: His Life and Work (1891) の復刻計画の報せを聞いて、私は膝を打った。画家による画家のライフ・ライティングとして出色の二大著が、日本において復刻されることに、大いなる喜びと興奮を禁じ得なかったのである。

 フリスの『私の自伝と回想』(以下『自伝』)は全31192頁から成る。最初は2巻本として刊行されたが、大変な好評を博し、出版社(リチャード・ベントリー・アンド・サン)からの強い要望に応えて、総インデックス付の第3巻がつけ加えられた。文字どおりフリスの生い立ちから画家としての人生が余すところなく網羅的に語られているのである。

 興味深いのは、その『自伝』第2巻と第3巻には、ジョン・リーチに関する章が一つずつ設けられているにもかかわらず、『自伝』を書き終えたあと、フリスは時を経ずして『ジョン・リーチ、その生涯と仕事』(以下『ジョン・リーチ』)の執筆にとりかかっていることである。この後輩画家に対してよほどの関心が深く、共感するところが大であったことを、物語っているといえよう。

 この両者にはいろいろな共通点があるが、第一にあげたいのは、彼らにとってチャールズ・ディケンズが共通の友であったことだ。フリスもリーチも、ディケンズとの交友がなかったならば、今日私たちが知るフリスやリーチにはなり得なかったかもしれない。

 フリスが画家として初めてロイヤル・アカデミーに登場したのは、シェイクスピアの『十二夜』に因んだ『十字の靴下どめをして現れたマルヴォーリオ』という作品によってであった。その頃のフリスは、文学作品の挿絵画家的な存在であったのである。

 しかしフリスの願望はモダン・ライフを描くことであった。ディケンズ流に言えば、「日々の生活と日々の人びと」を描くことが、彼にとっての目標だったのである。1841年、彼はディケンズの『バーナビー・ラッジ』のヒロイン、ドーリ・ヴァーデンと出会って、遂に「その時がきた」のを感じる。ドーリ・ヴァーデンから得たインスピレーションによって彼はモダン・ドレスの難問を乗り越えて、やがて『ラムズゲイトの砂浜』『ダービーの日』『鉄道駅』などを含む当世の生活風景の物語絵(ナラティヴ・ペインティング)の大作を生み出したのである。

 そんな道を歩んだフリスが、ディケンズの『クリスマス・ブックス』―わけても『クリスマス・キャロル』の挿絵画家としてのリーチの才能に打たれ、共感したのは当然であろう。そしてフリスは、リーチの描く『パンチ』絵に対しても、賛辞を惜しまなかった。

 『パンチ』誌上で活躍しはじめた頃、リーチは油絵にも挑戦してみたが、それは失敗した。しかしフリスから見るとその失敗は、リーチにとって「姿を変えた天の恵みであったのだ」。なぜならリーチは『パンチ』画家として、「この世に人間性が存在する限り、世代を超えていつまでも人びとを楽しませて止まない作品を遺したのだから」。

 もしもリーチの身の上に何かが起こっていたなら『パンチ』の存続も危なかったであろうと、フリスが言うほどに、リーチと『パンチ』との結びつきは密接であったのは事実である。しかし『ション・リーチ』には、それを超えてのリーチ論が展開されているのを見落とすわけにはいかない。

 たとえば、『ジョン・リーチ』第1巻における「ダグラス・ジェロルド作『金(かね)で出来た男』」の章や第2巻における「インゴルズビー物語」「トマス・フッドとリーチ」の章を読んでみよう。それぞれの文学作品とリーチの挿絵との交響の様相が見事に解き明かされている。文学と絵画の交渉のあり方に関心をもつ者にとって、多くの有益な刺激とヒントを得ることができるだろう。

 イギリス絵画の最大の特徴は、そのインスピレーションの根源が文学の世界にあることだと、Sacheverell Sitwell は言っているが、その最もよき例が、フリスとリーチの作品に見出せると思うのである。フリスの『自伝』と『ジョン・リーチ』は、すなわちナラティヴ・ペインティング研究のテキストであり、そのための不可欠な座右の書として、その復刻を歓迎したいのである。