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「教育娯楽雑誌」の復刻版の刊行

私市 保彦 武蔵大学名誉教授

 出版史、児童文学史で画期的な歴史を刻んだ「教育娯楽雑誌」の復刻版が、フランス本国でなく日本で刊行されると聞いて、この雑誌の特徴と価値を知っている人なら、だれしも驚きをかくせないだろう。

 「教育娯楽雑誌」は、19世紀の代表的な編集者であるピエール=ジュール・エッツェルによって、1864年に発刊された。当時、フランスでは児童図書の出版が開花し、児童向けの雑誌も続々と発刊されていた。そのなかで、エッツェルが満を持して発刊したのが「教育娯楽雑誌」であった。バルザックやユゴーなど、ロマン派の巨匠たちの編集ばかりか児童文学の分野にも進出して、すでに多くの児童図書の刊行を手がけていたエッツェルの抱負はきわめて明確であった。雑誌のタイトルにしめされているように、それは「教育」と「娯楽」を融合することにあった。「教育的なものは、興味を刺激する形でなされねばならない。さもなければ、教育臭で反感や嫌悪感をひきおこすことになる。面白い話のなかに教化的で有用な事実がかくされていなければならない。さもなければ、面白い話は中味に欠け、頭を満たすかわりに空っぽにしてしまうだろう」と、エッツェルは創刊号の巻頭の言で読者に呼びかけている。また、幼少期から成人までの知的要求にこたえるつもりだとして、親子がともに家庭で読む情景を想定している。

 当時、子どもに読ませる物語にはあいかわらず押しつけ的な教育調があったりする一方、中味のない興味本位の読み物も見られた。そうした状況から抜けだして、「教育」を「娯楽」と一体とし、広い読者層を獲得しようという高い志と野心が、ここには見られる。果たせるかな、「教育娯楽雑誌」は、きわめてスケールの大きな雑誌になって羽ばたいていった。そして、創刊号が1864年3月20日に刊行されるや、アシェット社などのライヴァル社の雑誌はたちまち色あせることとなった。月2回刊行の各号の価格が50サンチーム、年間予約がパリで12フラン、地方で14フランと、廉価版の子ども雑誌のほぼ10倍の値段であったが、上質の紙に活字を組み、挿絵をふんだんに載せて構成されていた。面白い物語、血湧き肉躍る科学冒険小説、博物学者・科学者による啓蒙的な記事、古今の古典からの抜粋、ルードルフ・ウイース、オールコット、アンデルセン等々の外国の物語の紹介、教訓的なコラムなどが満載され、フランスの代表的な児童雑誌として君臨することになる。

 それには、共同刊行者として名をつらねた科学読み物の大家ジャン・マセや、「SFの父」といわれている科学冒険小説のジュール・ヴェルヌの存在が欠かせなかった。というのは、雑誌は、科学読み物とフィクションという二本立てで構成されていったからである。

 エッツェルが共同刊行者にえらんだジャン・マセは、すでにエッツェル書店で刊行された『一口のパンの話』という、少女に手紙の形で内臓の働きについて語るという科学物語で、大評判になった作家であるが、子どもを惹きつける興味いっぱいの筋書で有益な知識をあたえるというその手法を、エッツェルは存分に生かした。

 「SFの父」と後年呼ばれることになるヴェルヌの才能をエッツェルが発掘したことは有名な逸話であるが、エッツェルは、そのヴェルヌの科学冒険小説の連載を雑誌の柱にした。そのため、ほとんどのヴェルヌの小説はまずこの雑誌で連載され、あとで単行本として刊行されるというプロセスをたどることになった。ヴェルヌは、いわば雑誌の大きな目玉だった。近年、ヴェルヌの小説のテキスト成立の研究が進みはじめているが、その意味では、時間的には初出となる「教育娯楽雑誌」のテキストの分析は、ヴェルヌ研究には欠かせない。

 他方、スタールという筆名で児童文学作家として多数の物語を残したエッツェル自身の作品、ジュール・サンドー、アンドレ・ローリーをはじめとする人気作家の読み物も話題を呼びつづけた。挿絵にはとりわけ力が入れられ、ギュスターヴ・ドレ、グランヴィル、ベルタール、ジグー、ガヴァルニ、ジョアノなどの代表的な画家ばかりでなく、子どもを生き生きと描く挿絵画家フロモンやフロリッヒなども起用された。すでにエッツェルは、グランヴィルの『動物の私的公的生活情景』、および『パリの悪魔』という二大戯文集で挿絵を読み物の主役に押し上げるという快挙を成し遂げていたが、「教育娯楽雑誌」も挿絵を眺めるだけで楽しいという雑誌であり、日本ではほとんど知られていない当時の児童文学の挿絵の特徴とその展開をたどるためにも、この雑誌は重要な資料になる。

 エッツェルは、1848年の二月革命では外務省官房長官として臨時政府を支えたが、そのため第二帝政期にはベルギーに亡命するという辛酸をなめている。また、雑誌刊行中におこったパリコミューンや、アルザス・ロレーヌの割譲という事態は、雑誌の継続に大打撃をあたえた。このような変転のなかで、エッツェルは筋金入りの共和主義者でありつづけ、ヒューマニズムの立場を守りつづけたが、そのエッツェルが、「教育娯楽雑誌」の読者を健全なブルジョア層に定め、高い志をもって、多彩な人脈から執筆者を起用し、フランスの未来を託した子どもたちに新時代の知識とモラルをあたえようとした跡は、雑誌の全編にあふれている。その軌跡をこの雑誌を通して読みとることも、フランスの児童文化史・社会史の観点から重要な仕事であろう。このように「教育娯楽雑誌」の特徴をたどると、これが日本で復刻される快挙は、やはり驚きというほかない。