ロンドンには不思議な魅力がある。壮麗な宮殿や議事堂があるかと思えば、庶民の町があり、マーケットがあり、そしてスラムがある。喧騒の大都会かと思えば、緑に覆われた静寂がある。シティのビジネス街を少し南に下れば、テムズで舟遊びに興じる人々の笑顔がある。直線だと思っていた道路はいつの間にか湾曲してクレッセントとなり、その先に意外な風景が現れる――ロンドンの魅力は、中世以来、多くの人々が生活をし、仕事をし、家族を育んできた、その蓄積から醸成されたものにほかならない。だからロンドンの歴史は、この都市に関わったすべての人々の伝記でもあり自伝でもあるのだ。「ロンドンに飽きたということは人生に飽きたということさ、ロンドンには人生のあらゆる楽しみがあるのだから」という18世紀の文豪サミュエル・ジョンソンの有名な言葉は、そういうロンドンの魅力を集約し、それを今に伝えている。
今回、アティーナ・プレスから都市史資料集成の一環として刊行されるModern London, 1900–1940は、100年前のロンドンの魅力を、当時の写真と図版、そして卓越した文章によって豊かに伝える画期的なシリーズである。3部構成になっていて、第1部は、当時既に消えつつあったそれまでの風景や建築を全4巻にまとめたもの、第2部は、「ネオ・ジョージアン」と呼ばれる建築をはじめ、20世紀初頭に広がったロンドンの新しい風景を中心にこれを全3巻にまとめたもの、そして第3部は、ハロルド・P・クランのThe Face of London (1937) などを中心に、第2次世界大戦前夜に至る大都市ロンドンの細部を全3巻にまとめたものである。いずれも、都市史、社会史、都市計画、風俗研究、そして何と言っても当時のイギリス文学・文化研究に必須の資料を精度の高い復刻で提供している。復刻された原資料は、きわめて重要な同時代文献でありながら、日本の大学図書館等にはほとんど所蔵されておらず、古書市場においてもかなり高額になっているため、日本人の読者、学生、そして研究者が、これだけの内容を包括的に利用できる機会は、残念ながらほとんどない。本シリーズを強く推薦する理由の一つである。
もう一つ、本シリーズを強く推薦したいと考えるのは、対象としている時期が20世紀初頭であって、それが、写真、図版、文章の3つのメディアによってきわめて効果的に説明されている、という点だ。19世紀ヴィクトリア朝におけるロンドンの風景については、多くの類書があり、良質な新刊書も少なくない。だが、これが20世紀初頭となるとどうだろうか。地下鉄の電化が進み、パブやレストラン、百貨店、劇場、官公庁や企業のオフィスなど、それこそ現在のロンドンの原型が出現しつつあって、しかもなお、第二次世界大戦におけるドイツ軍の空襲を受ける前の、どこか19世紀までのこの大都市を髣髴とさせるようなロンドンの様子を包括的に扱った類書はほとんどないのである。しかも本シリーズの資料からは、当時の人々のロンドンに寄せる思いを明確に読み取ることができる。それは、例えば、歴代の国王をはじめ、商人、旅行者、貴族、政治家など、実に多くの人々が通過するのを見守ったであろうテムプル・バーの写真や図版にもうかがえる。17世紀のロンドン大火の後、クリストファー・レンが再建したこのアーチ形の門は、1878年、ハートフォードシャーのシボルド・パークに移設された。本シリーズでは、往時のテムプル・バーと移設後の、「郊外に引退した」それとを対比的に見ることができる。そしてもし、少しでも21世紀のロンドンに関心のある読者なら、この「引退」した門が、2004年に、再びシティのセント・ポール寺院そばに移設・再建され、現役に復していることに気づかれるだろう。人々の生活と建築物、そしてそれを包摂する都市の物語が、ロンドンにはある。そういうロンドンの魅力を語ったアメリカ人家族の会話が、本シリーズ第2部に収録された
The Magic of Londonで紹介されている。一行は、大西洋を横断して、今、ロンドンに着いたところ。臨港列車に乗ってウォータールー周辺にいる。「父『ロンドンを好きなのは、大きくてしっかりとした街だからさ』、姉『私がロンドンを好きなのは、なんとなく暗くて謎めいているからよ』、弟『ぼくがロンドンを好きなのは、何でもビールとおがくずのにおいがするから』、母『私がロンドンを好きなのは、何が起きてもロンドンにいると感じられること』、全員『つまりそれは、家にいるみたいだってことだよね!』」
本シリーズは、ロンドンに住む者、ロンドンを訪れる者のそれぞれに、20世紀初頭のロンドンが与えた、この「家」のような感覚を原資料によって見事に伝えている。