Athena Press

 

注目のシリーズを締めくくる、「文化」への多様なまなざし

 

河野真太郎  専修大学教授

 

 1930年代。大恐慌の余波で失業率はうなぎ登りとなり、後半はフランコのスペイン、ナチス・ドイツと戦争の暗雲に覆われ、やがてロンドンも空襲の標的となる運命にある。この10年はそのような陰鬱たるイメージに覆われているかもしれない。それに呼応するように、30年代の文学はオーデン・ジェネレーションやジョージ・オーウェルによって語るのが定石となっている。しかし30年代は政治の時代である以上に「文化」そのものの再定義の時代であった。オーウェルの初期の著作とともに、「ブラウ論争」やF. R. リーヴィスの『大衆文明と少数文化』(1930)、Q. D. リーヴィスの『フィクションと読者層』(1932)のような著作は、はたまたマス・オブザヴェーション運動のような文化の記述の運動は、帝国が縮小し、不況にあえぐイギリスで、「国民文化」を再定義する動きだったと言える。

 今回、第1317部で完結するアティーナ・プレスの「モダンロンドン」のシリーズは、まさにそのような30年代に、ロンドンという都市の文化にいかなる眼差しが注がれたのかを見事に伝えるものになっている。そこには確実に「自己民族誌的」とも言えるような文化への新たな眼差しが含まれているのだ。

 文化を民族誌的に見ることは、旅人の視点で見ることでもある。第14部は田舎や地方との対照でロンドンに眼差しを注ぐ著作、また、戦間期に隆盛した放浪記もの(tramp memoir)のジャンルの書き手であるゴードン夫妻のLondon Roundabout (1933)や、同ジャンルの作家であるスティーヴン・グレアムによるTwice round the London Clock and More London Nights (1933)の、ロンドンの夜の生活も含めたスケッチ風の描写は蟻の目で当時のロンドンを伝えてくれる。ジョージ・オーウェルの30年代の著作はこれらの言説を背景にして読み直せるかもしれない。

 15部に収録されるのはまず、二人の外国人居住者(フランス人と、ベルリン生まれのオーストリア系ユダヤ人)によるロンドンの報告である。イギリスとはそれぞれに微妙な距離のあるこれらの国々の外国人がロンドンをどう見たかは興味深い。とりわけ後者のパウル・コーエン゠ポルトハイムの最後の作品となったThe Spirit of London (1935)は、そのタイトルの通り、外形ではなくロンドンの「精神」をとらえようとするが、そのために収録された多くの写真は、資料的価値のみならず、写真作品としての美学的価値も高い。第15部の後半は、保守党系の新聞The Evening Newsの名物コラムニストで、32年間にわたって治安判事裁判所からロンドンの生活を報告するコラムCourts Day by Dayを連載したジェイムズ・A・ジョーンズによる二冊の本を収録する。同じくThe Evening Newsに掲載されたこれらのロンドンのスケッチ集は、ディケンズ以来の文学の伝統の上にある。

 たとえ不況のもとであるとはいっても、人びとの生活は続いているのであり、消費はその生活の重要な一部分である。第16部はロンドンのショッピング・ガイド、レストラン・ガイドそしてマーケットを主題とした本で構成されている。とりわけ、メアリー・ベネデッタによるThe Street Markets of London (1936)はロンドンのストリート・マーケットの喧噪や臭い伝わってきそうな写真が添えられている。注目されるのは、この上なくよい表情を見せる被写体の人物たちの多民族性である。著者がストリートで買い物客に苦心してインタビューする様子も微笑ましく、当時の「人間たち」が活き活きと伝わってくる。

 本シリーズのすべてを締めくくる第17部は、もう一度困窮の30年代へとまなざしを向けなおす。第17部は、ロンドンの失業、貧困や劣悪な住宅事情だけでなく、同性愛や売春そして不良少年たちにも光を当てつつ、それに対する福祉についても思いを巡らせるものになっている。テイラー・クロフトのThe Cloven Hoof: A Study of Contemporary London Vices (1932)はこの時代のロンドンだけではなく、同性愛をめぐる状況と、それがどう描かれたのかに関心のある向きにとっては必読書である。男性同性愛だけではなく、ある種不可視のものとされがちだった女性同性愛にも一章を設ける本書は注目の一冊だろう。本シリーズの最後の三冊は、ロンドンの不良少年を対象にした社会福祉活動に従事する著者たちによるものだ。戦間期の若者文化は、戦後のそれと比較して研究が進んでいないが、この三冊はその主題に重要な光を投げかけてくれる。

 1930年代の後、イギリスとロンドンには第二次世界大戦と戦後の福祉国家建設という歴史が待ちかまえている。その前夜ともいうべき30年代に、ロンドンの文化にいかなる眼差しが注がれたのかを本シリーズは多様な視点から伝えてくれる。イギリス文学・文化研究のある種の盲点となっている30年代に豊富な論点がつまっていることに、読者は驚くだろう。