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Negro Year Bookの復刻刊行に寄せて
WashingtonWorkDuBois

中村 雅子 桜美林大学教授

 奴隷解放から約40年という20世紀初頭にアメリカにおける黒人の進路と展望をめぐってたたかわされたワシントン-デュボイス論争は、「経済的自立」を優先して「アメリカ市民として受け入れられる」ことをめざしたワシントンに対する、デュボイスを核としてナイアガラ運動に結集した若手黒人知識人の異議申し立てであり、両者のヘゲモニー闘争という側面を持っていた。両陣営の巨頭の間にあって非常に興味深い存在として注目されるのが、今回復刻されるNegro Year Book(『黒人年鑑』)の編著者モンロー・ワークである。

 奴隷としてヴァージニア州で生まれて1865年に解放されたBooker T. Washington18561915)、奴隷だった両親のもとにノース・カロライナ州で解放後に生まれ、4人の兄姉も奴隷だったMonroe Nathan Work18661945)、マサチューセッツ州の自由黒人の家庭に解放後に生まれたW. E. B. DuBois18681963)の三人の中で、安定した就職までに一番長くかかったのはワークであり、シカゴ大学で社会学の修士号を得てGeorgia State Industrial Collegeに就職したのは1903年、34才のときだった。ここでワークはデュボイスがアトランタ大学ですすめていた、さまざまな分野での黒人の達成と課題を明らかにする調査研究プロジェクトに参加し、1905年のナイアガラ運動の設立総会にも参加しているが、1908年にはワシントンの要請を受けてTuskegee Normal and Industrial Instituteで卒業生の進路調査と記録の整備という仕事をすることになる。

 ここからのワークの活動は、まさに1895年のワシントンのアトランタ演説の「ここにバケツを下ろす」を実践するものだったと言えよう。彼は当初の限られた職務をDepartment of Records and Researchの開設へと発展させ、黒人の現状を幅広く調査し、情報を整理することで、ワシントンのスピーチに必要なデータを提供し、外部からの照会に応えられる情報センターとしての役割を自覚的に担っていくのである。社会的な取組の必要が認識された事項に関しては、ワークはタスキーギの社会的信用を活用し、ワシントンの影響力の行使も進言して実現させるなど、「知識を力に」する活動を一貫して続けていく。その代表的なものとしては、「黒人健康週間」やリンチの統計資料の提供などがある。そうした情報の集大成が、今回復刻されるNegro Year Bookなのである。

 ワークとデュボイスには、知識による偏見と差別の解消という願い、アフリカへの注目、アメリカ黒人の自己肯定感の重視など、多くの共通項が見られる。同世代の黒人知識人としての悩みも共有している。こうした共通点に注目すると、融和主義か権利の要求か、学問の道かプロテスト(あるいはプロパガンダ)の道かという、これまでの二分法的思考はかなり窮屈なもののようにも思えてくる。

 ワークと同じシカゴ大学で社会学を学んだE. Franklin Frazier18941962)は、デュボイスにEncyclopedia Africanaの企画書に対するコメントを求められたときに、ワークのNegro Year Bookを「一人で始めたパイオニア的業績」で「予算も限られている」点からさまざまな問題もやむを得ないが、Encyclopediaはそれ以上のものにしないと意味がないと書き送っている(19361117日書簡)。当然デュボイスもこのことを意識していたであろう。ワークも加わったこの企画は資金不足からデュボイス自身の手では完遂できなかったが、晩年を過ごしたガーナで政府も関わってのプロジェクトとして20巻シリーズが継続刊行中であり、さらにハーバード大学のAppiahGatesによってデュボイスの初期の構想を引き継ぐAfiricanaというEncyclopedia1999年と2005年に刊行されている。Negro Year Bookの復刻刊行は、これらのEncyclopediaとともに、黒人世界の深さと広がりに私たちを招く扉となるだろう。

 

 

 

 

 

 

膨大な資料の果たした役割

奥田 暁代 慶應義塾大学教授

 「どん底」。19世紀末から20世紀初頭にかけて黒人社会が経験した状況をしばしばこのように表現する。リンチなどの暴力によって土地や財産を奪われ、隔離政策によって二級市民に貶められ、投票権剥奪によって発言の場を失った。新聞、雑誌、本などには、無知で進歩のない未開人、怠惰でモラルのない犯罪者、白人女性を乱暴する野獣、といったネガティヴなイメージが氾濫する。ケリー・ミラーやWEB・デュボイスら黒人知識人は、このような人種主義に抵抗する運動を展開したばかりでなく、論説を通じて黒人を犯罪、とくにレイプ、と結びつける風潮を批判し、実際には黒人が奴隷解放後に目覚ましい社会進出を果たしたことを強調する。

 しかし、こうした反駁は黒人誌に掲載されるだけで、発行部数が圧倒的に多い一般紙/大衆誌の影響力には敵わない。流布しているイメージは真実とかけ離れていると指摘しようにも、黒人を劣った/危険な存在として描きだす白人至上主義者の書物も、「事実に基づいた真実」と謳われていたのである。例えば、『クランズマン』(1905年)を書いたトマス・ディクソンは、小説が、「本物の記録」、「直接得た情報」、「宣誓された証拠書類」を用い、数千件にのぼる資料を何年もの歳月をかけて読み込んだ結果である、と主張していた。

 モンロー・ワークが黒人に関するさまざまな資料――公文書、報告書、新聞記事、雑誌記事、統計、など何でも――の収集を始めたのは、このように歪められた黒人像が伝播されていた時だった。政治面での権利拡大を訴えるデュボイスのナイアガラ運動にも参加したワークが、なぜ経済面を重視するブッカー・T・ワシントンのタスキーギで働くことを承諾したのか、と両者を対立させて論じる人は不思議に思うだろう。しかし、ワークにとっての地位向上とは、まず実態を把握するところから始まる。正確な資料を提供することによって、白人が持っている誤った認識を是正できると考えた。

 例えば黒人の犯罪に関して調査する場合、その実態を、飲酒との関わりなどさまざまな角度から分析し、解決策を模索する。郡の裁判所で記録を調べ、保安官にインタビューをするなど、フィールドワークを欠かさないワークは、ただ単に白人の描く「黒人=犯罪者」のイメージは違う、と主張しても意味がなく、確かなデータを提示することを重視した。

 ワークが年月をかけて集めた資料は次第に、各地の大学や連邦政府機関までが利用するほどのものになった。ここに復刻出版される『黒人年鑑』は、その膨大な資料を編纂したもので、その年の出来事が記録されているばかりでなく、歴史的な資料や社会学的な統計、組織や人物録、さまざまなトピックを調べるための文献リストまでついている。研究者ばかりでなく一般読者にも活用され、高校の授業でも使われたという。黒人の真の姿が広くアメリカの読者に知れ渡ることは、まさにワークの望んだところであろうし、黒人社会の必要としていたことだった。私たちもまた、ワークの残してくれた貴重な資料を通じて、誤ったイメージや作られたイメージではなく、ありのままの姿を知ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

真実を伝えようとする重要な業績

ジェームス・M・バーダマン 早稲田大学教授

 アフリカ系アメリカ人のことについて、教科書や新聞あるいはその他のメディアで普通に読むことができる今と違って、かつてアメリカ黒人は白人市民社会をはじめとする自分たち以外の世界から、いわば「見えない人間」扱いを受け、その業績はないがしろにされ、社会に対する意見は聞き入れられず、文化もおよそ無視されていた。こうしたあまりの抜け落ちの中で際立って例外的だったのが、今回復刻されるNegro Year Book(『黒人年鑑』)である。

 近年、アフリカ系アメリカ人の経験についての知識が随分改善されてきたとはいえ、今でも我々のの知りえた事はしばしば断片的で表面的に過ぎなかったりする。ところがこの『黒人年鑑』の網羅性には非常に驚かされる。“negro”という語の頭文字を大文字とすべきかどうかという議論とそのことの新聞各紙の報道から、南部の法廷での黒人に対する厳しさまで、歴史証言の宝庫とさえ言える。黒人の地位向上への政治的・法的行動が扱われるのと同じに、音楽の「ジャズ」「ラグタイム」の起源、有名な黒人霊歌の一つSwing Low, Sweet Chariotについてもシリアスに取り上げられている。黒人の生活というものを見渡したとき、触れられないところなど無いのではないか。

 州別の黒人人口統計、職業統計、出生率・死亡率、教育などは検討されるべき資料であるし、黒人の様々な業績についても、例えば現在にも続くPhi Beta Kappa(優等学生友愛会)に入会した黒人名簿があって、そこにはハーバード大のデュボイスの受賞も記されている。また、ボクシングチャンピオンのリストに伝説のジャック・ジョンソン、他のスポーツ競技の項では一世を風靡した陸上のジェシー・オーエンスの名が見られる。更にあまり知られていない黒人陶芸家や画家、政治家、軍功労者、教会指導者の名前が、NAACPの功績受賞者名―声楽コントラソルトのマリアン・アンダーソン、作家リチャード・ライト、社会活動家A・フィリップ・ランドルフほか―と平行して挙げられている。ヨーロッパやラテンアメリカのアフリカ系住民について、また植民地アフリカでの黒人の経験について、特別に章が設けられた版もある。

 ところでこの『黒人年鑑』は現在のタスキーギ大学と関わりが深いのだが、私は数年前このタスキーギ大学を訪れた際の独特の経験を思い起こさずにはいられない。そこでは学生、教職員のほぼ全員が黒人であり、白人である私は誰の目にも明確に別のエスニックグループに属する存在であった。そういう状況にあることの感覚は本当に独特のものだったのだ。

 タスキーギ大学で私が接した人々はもちろん皆親切で、完全な部外者である私によくしてくれて、大変素晴らしい日々だった。しかし長きに渡り、歴史の教科書が白人だけの社会を語り、そこで自分たちの事実を伝えられることのなかったアメリカ黒人が、かつてこのような思いやりに浴することが無かったことに疑う余地はない。そしてそんな時代に刊行されていたこのモンロー・N・ワークのしっかりとした一連の仕事は、消し去られていた黒人社会の、そのかなり深いところまでの情報を伝えようとしたものなのだ。

 奴隷解放から公民権運動の始まりまでの、アフリカ系アメリカ人の文化と歴史のあらゆる面について調査し尽くされているとさえ言えるこの『黒人年鑑』はさらなる研究を刺激してくれる。アメリカ黒人がいかに生き、考え、感じ、残してきたのか、そしてアメリカ文化を創造する役割を担ってきたのかを理解する手段として『黒人年鑑』は欠かすことのできない資料だといえる。

(訳出文責・アティーナ・プレス編集部)