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自信にあふれたパリの自画像

小倉 孝誠 慶應義塾大学教授

 

 

 「パリ・パノラマ」シリーズの一冊としてこの度復刻される『パリ案内』全2巻は、1867年のパリ万国博覧会を機に刊行された。執筆者は百名以上に及ぶ。原書は八折り判と小型だが、2千ページを超える大著で、図版も美しい。長い序文を寄せたのは、あのヴィクトル・ユゴーである。緒言のなかで版元は「パリについてこれまでに作られた最も完璧な著作」だと、誇らしげに宣言している。

 時は第二帝政の最盛期、セーヌ県知事オスマンの改造事業によって、パリの町がおおきく変貌していた。皇帝ナポレオン三世は、フランスの繁栄と威信を内外に示すために万博を開催したのだった。本書は万博を訪れる外国人、地方在住のフランス人、そしてパリ住民のために、新しいパリを紹介するという、実際的なガイドブックでもある。パリの市街図、街路名の索引、劇場の地図、鉄道と乗合馬車の路線図、郵便局の所在地などの情報が掲載されているのはそのためだ。日本が初めて参加した万博でもあり、幕末日本からの派遣団がこの本を手にした可能性も皆無ではない。

 しかし『パリ案内』は、そのような観光的な側面に限定されるのではなく、19世紀に数多く刊行されたパリに関する著作のなかでも、いくつかの点で傑出している。

 まず内容として、1830年代に成立したパリをめぐる「生理学」、つまり同時代の社会、文化、習俗、日常性を著者が個人的な体験を織り交ぜて語るルポルタージュ文学の集大成になっている。第1巻が「学問と芸術」、第2巻が「生活」に当てられる。「学問」の部にはパリの歴史、アカデミックな諸制度、教育機関、公共図書館、「芸術」の部には美術館、宮殿、歴史建造物、劇場などの項目が立てられる。「生活」の部では、パリ人の日常性が描かれ、政治、司法、商業、社会扶助、ジャーナリズム、通信と交通など、社会生活に必要なあらゆる領域の現状が解説されている。そして掉尾を飾るのは、華々しい万博の探訪記である。当時のパリについてすべてを伝える、という壮大な野心を隠さない。

 第二に、内容が豊かなだけでなく、項目の配列がきわめて方法的である。それ以前のパリ生理学ものであれば、書き手の趣味と関心におうじて、遊歩の経路をたどるように章がしばしば規則性なしに並んでいた。他方『パリ案内』は、それぞれの著者が自分の熟知している組織や分野について、正確で、ときに専門的な知を提供してくれる。たとえば、学士院について、哲学者エルネスト・ルナンが語っているのはその一例である。項目を整合的に分類し、体系的な記述にもとづく本書は、当時のパリの社会、制度、文化、習俗をめぐる一種の百科事典になっているのだ。

 第三の特徴として、執筆陣の豪華さと多様性が目をひく。本書の正式のタイトルは『フランスの主な作家と芸術家によるパリ案内』だ。実際、当時フランスの各界で活躍していた代表的な人物たちが、綺羅星のごとく著者として名を連ねている。作家のなかには哲学者、歴史家、ジャーナリスト、科学者、行政官なども含まれる。

 「学問」の部を担当した者のなかには、先に言及したルナンのほかに、物理学者ベルトロ、批評家サント=ブーヴ、歴史家ミシュレ、後に著名な辞典編纂者になるリトレの名前が見える。「芸術」の部を担当したのは作家のゴーチエやデュマ・フィス、建築家ヴィオレ==デュック、哲学者・歴史家テーヌなど。そして本書の半分を占める「生活」の部では、ジョルジュ・サンド、バンヴィルらの作家がパリの街路と風景を愛で、写真家ナダールがパリの地下世界を解説している。当時としては、これ以上望めないほどのラインアップだろう。

 興味深いのは、執筆者のなかに、思想的な理由でフランスを離れ、外国に亡命中の人物が含まれていることだ。185112月にクーデターを断行して第二共和政を潰し、翌年から帝政を敷いたナポレオン三世に抵抗して、亡命の道を選んだ作家や知識人は少なくなかった。『小ナポレオン』(1852)でナポレオン三世を舌鋒鋭く弾劾したユゴーがその筆頭だが、その他に社会主義者ルイ・ブラン、歴史家エドガール・キネもいる。権力側から見れば厄介な人物たちだが、彼らの執筆参加を不問に付すことで、度量の広さを見せようとしたのだろう。1860年代後半、体制は一時期の独裁を緩和し、「自由帝政」へと方向転換していた。帝政当局が、パリにやってくるフランス人、外国人に政治的な寛容さを誇示するために、万博は恰好の機会だったに違いない。

 内政や外交上の懸念事項があったとはいえ、1867年のパリは自信に満ちあふれていた。3年後の普仏戦争によって帝政が崩壊することなど、誰も予期していなかった。万博によって、パリはみずからを見物客のまなざしに差し出し、みずからを記念碑化しようとした。『パリ案内』はそのすがすがしい矜持の証言にほかならない。