Athena Press

 

表象される歴史、記録される情動

舌津 智之 立教大学教授

 

 第二次世界大戦をめぐるアメリカの文学は、戦時中に書かれたサローヤンの『ヒューマン・コメディ』をはじめ、戦後ほどなく出版されたジョン・ハーシーの『ヒロシマ』やメイラーの『裸者と死者』、 そしてポストモダンの一時代を画したヴォネガットの『スローターハウス5』やピンチョンの『重力の虹』など、いずれもアメリカという国家の暴力性を批判的に見据えるものである。 それに対し、本書はあくまでアメリカ軍目線の写真集であり、たとえばヒロシマやナガサキの写真は、焼け野原の遠景であり、そこに原爆の残虐さを示すような人体は写っていない。 また、「分別ある日本兵(ジャップス)」と見出しを付された慶留間列島(沖縄)の写真には、日用品の包みを抱えてアメリカ軍に投降する日本兵たちの姿、そして彼らが人道的に食事を与えられている様子が記録され、「天皇のために命を捨てるサムライ流儀」を疑問視する説明文が添えられている。 無論、あらゆる表象の背後には意図や意思があり、客観的な記録というものは存在しない。大量殺戮行為を正当化する自国のイデオロギーに対し、多くのアメリカ人作家が疑問を突きつけた――あるいは突きつけ続ける――その背景にあった歴史の細部が本書の中から立ち現れてくる。 一方、敗戦をめぐる日本のパブリック・メモリーにおいて、戦死した同胞の悲劇が強調されることは言うまでもない。しかし、上記の写真が伝えるような日本兵の姿――軍国の教えを捨てて戦場から逃げ出した「非国民」の決意――のうちにこそ、すぐれて文学的な情動が宿るのではあるまいか。 本書は、日米関連の記録にも多くの頁を割いており、我々読者はそこから、戦勝国と敗戦国の心理ドラマをそれぞれに相対化する視点を得ることができるはずだ。文学/表象系の研究にも資するであろう貴重な一次史料である。