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景観価値の発見とSee America Firstキャンペーンの展開

森下 直紀 和光大学専任講師

 

 19世紀末のフロンティアの消滅とともに、アメリカ合衆国の主要産業はそれまでの農業から工業に代わり、その後の半世紀の工業化の進展によって、アメリカは世界の列強となった。まさに、「現代アメリカ」の形成期であった。See America Firstシリーズは、この時期に展開された一連のキャンペーンである。マーガリート・S・シェイファーのSee America First: Tourism and National Identity 1880-1940(2001)によれば、このキャンペーンの目的は、当時年間1億5000万ドルもの金額がアメリカから主にヨーロッパの観光に向かう人たちによって支出されていることを憂慮し、メキシコ・カナダを含めた北米の景観的魅力について当の北米住民が無知であることを指摘し、北米景観の魅力を訴えていくことで、国外に流出している資金を国内に還流させることにあった。See America Firstは、マーケティング戦略を駆使した現代的な観光キャンペーンであるとともに、この時期の社会の変化に戸惑う人々が、旅行者として自分たちの「アメリカ」を発見する役割を担った。

 See America First運動を唱道したのは、西部各州の知事経験者たちであったが、彼らが北米の景観を発見したのは、おそらくヨセミテ国立公園を含むダム計画の是非をめぐって展開された景観論争が契機となっているものと思われる。西漸運動の結果、急速に膨張する都市の水需要に対してサンフランシスコ市当局は、将来の水需要を賄う大規模水源をサンフランシスコから約240km離れたシエラネヴァダ山脈奥地に求めた。当該計画は、水源開発のためのダムを、ヨセミテ国立公園を含む複数の流域に建設しようとするものであった。1901年に立案されたこのサンフランシスコの水源開発計画は、国立公園を所管する内務省の歴代長官によって幾度も退けられた。この論争が、国立公園開発論争と考えられている所以である。しかし、1906年のサンフランシスコ大地震に伴う大規模都市火災は、消火用水の不足から水源開発を阻んできた連邦政府への不満となり、ついに内務省を動かすことに成功した。1908年の内務長官による開発許可から間もなく、開発反対運動が提起された。このダム開発論争は、パイプラインやダム開発用地を連邦からサンフランシスコに譲渡するための法案をめぐって連邦議会を中心に展開することになった。

 しかしながら、このダム開発論争は、国立公園開発のみを問題にした論争ではなく、実際には保護されるべき景観とは何かをめぐっての論争であった。というのも、反対運動のカリスマ的存在であったジョン・ミューアは、国立公園内に計画された2つのダム計画地の内の一方については開発を容認する見解を示していた。最終的に連邦議会を動かしたものは、1912年にサンフランシスコ市の報告書に示されたダム開発後の景観予想図であった。当時の先端技術であった合成写真の手法を用いてダム湖の景観を示し、元の渓谷の景観を損なわないことを示したのであった。結果としてサンフランシスコは、シエラネヴァダ山脈に大規模な都市水源を持つことが可能になったが、この論争のもう一つの成果として1916年に国立公園局が設立されることになった。その後現在にいたるまで、国立公園内で水源開発はおこなわれていない。優れた景観を保護するための制度的管理が確立したためである。

 See America Firstキャンペーンは、同時代のアメリカ西部やその他の地域における景観的魅力を観光資源として活用することを目的としている。シリーズ各巻に収録された様々な地域は紀行文形式で記述され、景観の魅力とともに当時の社会的状況も生き生きと描かれている。特に目を引くのが、カナダの「ブリティッシュ・コロンビア」である。北米では、1880年代以降に東欧諸国やアジアからの大量の移民が流入し、徐々に政治問題化していくが、移民を含む地域の当時の様子をうかがい知ることのできる貴重な資料となっている。