アーネスト・T・シートン(1860-1946)の「狼王ロボ」を初めとする動物文学の傑作に心躍らせたことのある人でも、シートンという作家の全貌を知る人はかならずしも多くないだろう。動物文学といえばシートンといっていいほど人口に膾炙した作家ながら、シートンは、じつはほかにもさまざまな仕事を手がけており、かつそれらがけっして動物文学的なジャンルの仕事と無関係であるどころか、じつに深いところで強い連携関係をもっている。また、シートンの仕事は、20世紀初頭の先駆的環境教育形態であるnature
study movementや、動物文学における擬人化の問題、すなわち、自然観察の客観性の問題にかかわるnature
faker論争に深くかかわっており、ネイチャーライティング研究にとっても見逃せない研究課題を提供していることは間違いない。
ネイチャーライティング研究は、その歴史の浅さゆえ、ヘンリー・D・ソロー研究を一方の軸とし、他方の軸として、エドワード・アビー、アニー・ディラード、バリー・ロペスといった20世紀後半の現代作家にその関心が集中しがちである。言い換えるならば、(自戒を込めて言うのだが)ネイチャーライティングの歴史的研究がやや手薄である。なぜなら、歴史的な視点で検討しようとすれば、ある面でマイナー作家の歴史的評価といったいささか退屈な作業を強いられるからである。おそらく、そうした意味でいうなら、シートンもまたそんなマイナー作家のひとりであろう。ここで私がいうマイナー作家とは、けっして販売部数の多寡に基づくのではない。むしろ、文学作品としての評価を指している。
とはいえ、シートンの場合、たんに歴史的評価の対象としてのみとらえるのは愚の骨頂だろう。なぜなら、そもそも動物文学というネイチャーライティングのサブ・ジャンルを本気で検討しようと思うならば、シートンを欠いてはありえないからだ。ネイチャーライティング研究において、ソローの遺産がいかばかりのものかがつねに問題となるように、動物文学研究においてシートンを外すことはできない。いずれにせよ、歴史とジャンル論の両面から、シートンという存在は大きな課題であることは間違いないであろう。
近年、動物と人間の関係をめぐる議論は活気を帯びてきている。それもいわゆるネイチャーライティング研究の外部で起こっている。たとえば、今福龍太・多木浩二『知のケーススタディ』(1996)は、その対論の最初に動物を扱って刺戟的な議論を展開している。主に今福氏が依拠するのは、美術批評家・ジョン・バージャーの「なぜ動物を見るのか」の論点だが、いうまでもなく、1996年に亡くなった人間生態学者ポール・シェパードによる浩瀚な「動物他者論」も、このあたりの議論に深く関与している。また、教育学者・矢野智司による『動物絵本をめぐる冒険』(2002)は「動物—人間学」を明確に標榜し、さらに中沢新一の『熊から王へ』(2002)を初めとする諸著作は、じつに魅力的な人類学的視点を提供している。人間学を再考するに当たって、動物論は不可欠の課題であることがこれらの論者によって明らかにされつつある現在、シートンの本格研究は必須の課題となるであろう。