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百年の時を超えて蘇るアメリカの子どもたちの歴史絵巻

石原 剛 早稲田大学教授

 1870年代以降およそ70年もの長きに亘り、アメリカを代表する子ども向け雑誌として発行され続けた『St. Nicholas』誌。その見事な復刻版第3期がこの度刊行される運びとなった。網羅する時代は1903年11月から1918年10月。20世紀の扉を開けたばかりのアメリカが、時代のうねりの中で大きな変貌を遂げていく時期にあたる。進歩と破壊の時代にあって、アメリカの子どもたちはいかなる視線を世間に投げかけていたのか。『St. Nicholas』の頁を繰るごとに、百年前のアメリカに生きた少年少女たちの息遣いがまざまざと伝わってくる。

 20世紀半ばまで発行されていたにもかかわらず、『St. Nicholas』といえばどちらかというと19世紀のアメリカを代表する子ども雑誌というイメージが強い。確かに、初代編集長のMary Mapes Dodgeの力もあり、19世紀にはLouisa May AlcottやMark Twainといった著名作家たちがこぞって同誌に寄稿していたことを考えれば、19世紀こそが同誌の最盛期であったとする見方もある程度理解できる。しかし、今回復刻される20世紀初頭の各巻を見て明らかなことは、前世紀に負けないほどの魅力と内容を、20世紀においても同誌が十分兼ね備えていた事実だ。例えば、1899年に始まって以降、毎号活況を呈していた懸賞付きの読者投稿欄で、若きFitzgeraldやFaulknerも参加したことのある「St. Nicholas League」と呼ばれる企画や、時事問題に関する内容の濃い解説を中心とした「The Watch Tower」といった企画を導入するなど、20世紀初頭の『St. Nicholas』は前世期の版とは異なる独自の魅力を醸し出している。加えて、同誌に掲載されたイギリスの誇る挿絵画家Arthur Rackhamの美しい挿絵にも代表されるように、印刷技術の向上にも後押しされ、鮮やかな彩りの挿絵が随所に散りばめられている点も見逃せない。

 そして何よりも、20世紀初頭のアメリカの時代状況と子どもたちの関係を考える上で、同誌は実に大きな示唆を与えてくれる。例えば、ユニークな姿をした気球船が縦横無尽に飛び交う未来の空の想像図や模型飛行機特集などを目にすると、人類初の動力飛行を成功させたばかりのアメリカが、飛行立国として自国の未来を切り開いていくアメリカの子どもたちに熱い視線を注いでいたことがよく分かる。しかし、そういった明るい未来と先端技術の融合が提示される一方で、技術が戦争と結びつくことで巨大な破壊力を有した兵器へと変貌していく姿も同誌にはしっかりと刻印されている。例えば、第一次大戦の勃発を受けて掲載されたドイツの最新の潜水艦技術に関する写真や図版入りの詳細な解説記事などはその最たる例で、戦時におけるアメリカの科学教育が刻一刻と戦争色を帯びていく様子が手に取るように分かる。他にも、戦場の兵士のために包帯を縫う少女たちの姿や、赤十字に寄付するためにベリー摘みに参加する少年たちの紹介記事など、戦時下の子どもたちの平和活動を伝える内容も多い。その一方で、戦費調達を目的に大量発行された自由公債の販売に協力する少年少女や、海軍予備少年兵に登録した男の子たちの姿、ひいてはサマーキャンプで手旗信号の教練に参加する少女たちの様子など、より積極的に戦争に貢献しようとする子どもたちの愛国的な姿がことさらに強調されている。誌上に氾濫する星条旗とともに、当時のこういった子どもたちの姿をみていると、まさにアメリカにとって第一次大戦とは子どもをも巻き込んだ総力戦であった事実をまざまざと思い知らされることとなる。

 他にも、スポーツ(柔道の技の解説もある)、科学、動物、宇宙、料理、音楽など、同誌が扱ったテーマは実に多彩だ。また、同時代の日露戦争への高い関心をも反映して、日本関連の記事も多い。そういった多岐にわたる内容そのものに、アメリカを代表する子ども向けの総合雑誌『St. Nicholas』の真骨頂があるといえよう。子どもをめぐるアメリカの歴史絵巻を見ているようで、いくら頁をめくっても興味が尽きることはない。

 

 

 

 

20世紀という時代の試練にあらがうセント・ニコラス誌

宇沢 美子 慶應義塾大学教授

 1873年の創刊以来、アメリカの児童文学の最先端を走り続けてきた児童雑誌『セント・ニコラス』も、20世紀にはいって試練の時を迎えることになる。第一の試練はなんといっても、影響力のある二人の編集者を失ったことだろう。1905年に、本誌創刊以来の名編集主幹メアリー・メイプス・ドッジが病没した。その追悼号の記憶もまだ新しい1908年には、読者参加誌面欄「セント・ニコラス・リーグ」を、ほぼ十年のうちに次世代養成のための文芸工房へと変貌させた辣腕編集者アルバート・ビゲロー・ペインが、あっさり辞職してしまう。ドッジとペインは、児童雑誌の考え方も飴と鞭ほど異なる編集者であり、二人の両極的な児童誌の考え方が、本誌の複層的な頁構成に、良くも悪しくも影響を与えた。そして両翼をほぼ同時期に失ってもなおこれだけ見事な誌面を維持できたのは、両編集者を支え続けた編集陣の実力の賜物だ。

 実際なんと美しい誌面だろう。アーサー・ラッカムの妖精画をはじめ、多色刷りのイラスト頁の完成度の高さはいうまでもないが、この第三期前半の白黒の線描の魅力には心蕩ける。ラファエル前派、ジャポニスム、ビアズリー、アール・ヌーヴォーにつらなる画家たちが、ほんとうに美しすぎるほどの装飾イラストの花々を惜しげもなく咲かせている。執筆陣に関しても、同時代の児童文学界を席巻した『オズ』のライマン・フランク・ボーム、『小公女』でおなじみのフランシス・ホジソン・バーネットが新作を寄せ、あの「若草物語」のルイーザ・メイ・オルコットの未発表原稿や手紙などが死後出版されるなど、話題性も十分だ。こうした大作家たちの傍らで、今日では忘れられている往年のベストセラー作家たちの作品を拾い読むことができるのも、本誌を繙く魅力の一つだろう。

 さて、二つめの大きな試練だが、戦争や経済といった社会的な不安定要素が中産階級向け児童雑誌である本誌の誌面構成を大きく左右したことは見逃せない。もっとも、試練も対処しだいでは、十分に雑誌の新しい魅力作りに貢献できる。そのいい例が戦争といっても対岸の火事、アメリカにとっての日露戦争だった。この戦争が、日本ひいてはアジアに対する関心へと結びつき、本誌のコスモポリタンな魅力を引き出したのである。浮世絵、柳模様に関する記事をはじめ、異国としての日本/アジア像を紡ぎだす様々な作品が登場した。日本人執筆者の原稿も掲載された。明治の新聞小説家として絶大な人気を得ていた村井弦斎による児童小説「紀文大尽」が連載されたのもこの時期である。10年代にはいって世界大戦参戦が視野にはいると、それまでの花の少女雑誌の色合いが失せ、少年雑誌化する。ドミノが倒れていくように、花々のモチーフが、戦う少年の作画へと早変わりしていく。チームワークと戦闘性を前面におしだすスポーツものから始まり、軍艦、戦闘機もの、ライフルの撃ち方教室など、眼に見えて戦争を意識した題材の記事が増え、少年マッチョ路線が非常事態に即した基調となる。

 かくして、危機に面し、時代の要請に答え、『セント・ニコラス』という児童雑誌の使命は極から極へ揺り動く。子供を遊ばせるのか、学ばせるのか、はたまた競い合わせ、そして戦わせるのか。その総てがこの第3期に存在した。「児童」の概念自体もより複雑になっていくなか第3期に登場する一番驚くべき子供の使命は、子供広告作家修行であった。別頁仕立てで付録されていた広告頁をよく学び、『セント・ニコラス』にふさわしい広告作品を作る、というコンペの課題が出された。一等賞は5ドルの賞金、1904年以降は独自に商品を選ぶよう推奨され、良い作品は実際に広告主に採用される可能性があると示唆された。広告主からの依頼もあって始まった広告作家修行だが、そこには子供は未来の消費者であり生産者だという考え方が当然あったはずである。広告をどう読むか、そしてどう描くかも時代が要求する児童像の一部となっていたわけだ。

 ところで、子供たちが読みこんだはずの広告頁だが、実は広告と本誌『セント・ニコラス』の関係は今ではとても見えづらく、不明な点も多い。保存のために月刊各号を合冊する時、本体部分以外は削除して装丁したため広告頁が欠落しているからである。もっとも例外はあるものだ。今回のアティーナ・プレスの復刻には、幸運にも一部例外的に残っていた広告頁を、これまた偶然残っていた一部の月刊のカラー表紙とともに、選択的にとはいえしっかり組み込む予定だそうな。お宝広告をぜひ探してみてほしい。

 

 

 

 

アメリカ教育史とSt. Nicholas

中村 雅子 桜美林大学教授

 第3期(1903-1918)のSt. Nicholasは、アメリカ教育史という観点からはどのように読んだら面白いだろうか。創刊者のMary Mapes Dodge(1831-1905)が生まれたのは、ちょうど北部でコモンスクール制度が成立する頃だが、彼女は学校に行ったことがなく、「文化資本」に恵まれた家庭で二人の姉とともに、家庭教師に英語、フランス語、ラテン語、美術と音楽を学んでいる。St. Nicholasを発刊した頃には、彼女の言葉によれば「ほとんどの子どもは学校に行って」おり、負担の多い学校生活で疲れた子どもの「自由」が保障される場所として、彼女は本誌を構想している。

 このことと関連すると思われるが、本誌には「学校」や「先生」のことはあまり出てこない。一方、1906年に社会教育協会(Social Education Association)が発足するなど、第3期はさまざまな社会教育活動が発展する時期であり、ボーイスカウト、ガールスカウト、4Hクラブなど、コミュニティにおける諸活動に関する記事は豊富である。

 本誌の子ども観が、デューイやキルパトリックに代表されるプログレッシブ・エデュケーションの思想と実践における、いわゆる「子ども中心主義」とどのように響きあい、しかも、同じではない(かもしれない)か、という点なども非常に興味深いと思う。

 「新移民」と呼ばれる南東欧からの移民が世紀転換期に急増したことを背景に、職場、地域や学校での「アメリカニゼーション」が重要課題になり、それが第一次世界大戦期には「愛国心と統合」に収斂していく過程がちょうどこの第3期と重なっており、その変化は誌面にはっきりとあらわれている。たとえば「愛国心」等のテーマで、学校教育と社会教育を比較しつつ、子どもを取り巻く環境を総合的にとらえる研究も求められるだろう。教育史研究の資料として、子どもの文芸作品や写真などの投稿欄として1899年にスタートしたSt. Nicholas Leagueにも注目しておきたい。

 何が書かれているか、誰が描かれているのか、どう描かれているのかだけでなく、何が書かれていないのか、誰が描かれていないのかという観点も重要だろう。その観点からすると、第3期の挿絵で描かれているのは圧倒的に白人中産階級の子どもであり、先住民や黒人、アジア人が登場するときは「他者」として描かれている印象を受ける。第38巻12号(1911年10月)では黒人霊歌を「世界の民族音楽に対する貴重な貢献」と高く評価して紹介しているが、挿絵は黒人の乳母がベッド脇で白人の男の子に子守唄として聞かせている情景である。本誌を読んで育った白人の子どもたちはどのような世界観を形成したのだろうか。黒人の子どもたちは本誌を読んでいたのだろうか。読んでいたとしたら、どのような思いで読んでいたのだろうか。1873年創刊号は4万部、1883年には10万部に達し、20世紀半ばまで7万部前後を発行していたSt. Nicholas誌は「アメリカを代表する子ども雑誌」として、その影響力は多大なものであったと思われる。

 第3期は奴隷制廃止から40年を経ても黒人が二級市民として差別されていた状況のもと、ナイアガラ運動(1905-1909)や「全国黒人地位向上協会(NAACP)」(1910-)など、公民権運動の源流となる組織が結成された時期とも重なる。この動きは本誌に反映されているだろうか。NAACPの創設に加わったW.E.B.デュボイスは、その機関誌Crisisで年に一回「子ども特集号」(Children’s Number)を発行し、それを発展させて、黒人の子どものための月刊誌Brownies’ Bookを1920年1月から1921年12月まで発行した。第3期の本誌を見ることによって、それが必要であった背景が浮かび上がってくるだろう。