エドモン・テクシエの『タブロー・ド・パリ』は、19世紀のちょうど半ば、1852–53年に刊行された。四つ折り判の2巻で、各巻がほぼ400頁から成り、およそ1500点の図版(木版画)に彩られた美しい書物である。その図版の下絵を描いたのはガヴァルニ、グランヴィル、ドーミエなど当代一流の画家たちだった。同時代のパリの諸地区、記念建造物、社会組織、制度を詳しく記述したこの著作は、七月王政期から第二共和制期にかけてのパリの風景と生態と都市機能を知るうえで、今日では不可欠の資料である。実際、19世紀パリに関する研究書においては、テクシエの著作は頻繁に言及されるし、その画趣に富む挿絵がしばしば転載される。したがって、この価値ある著作がこのたびアティーナ・プレス社によって復刻されるのは、じつに意義ある企画と言ってよい。
ここで「タブロー」とは、言うまでもなく情景、風景という意味で、19世紀のジャーナリスティックな著作にはこの語を冠したものが少なくない。パリの社会と風俗をパノラマ的に叙述するこうした言説の祖型は、18世紀の作家メルシエの『タブロー・ド・パリ』(1782–88、邦題は『十八世紀パリ生活誌』)で、19世紀のパリ論はこの書物と競合するかたちで書かれたのである。メルシエが革命前夜のパリについて実現したことを、現代のパリに関して行なうこと――それが19世紀のパリ論に共通する野心だった。『フランス人の自画像』(全9巻、1840–42)、『パリの悪魔』(全2巻、1845-46)などが、この傾向を代表する。テクシエの著作も、こうした一連のパノラマ文学の系譜に連なる。
実際詩人ボードレールも謳ったように、19世紀のフランス人は、首都がめまぐるしく変貌する都市だという意識を強烈にもっていた。そして、その変化と多様性がパリの肖像を絶えず描き直すことを正当化してくれる、と考えられたのだった。では他の著作と比較した時、テクシエのそれにはどのような特徴と価値があるのだろうか。
まず、取り上げられた主題の多様性。さまざまな人物のタイプや職業(お針子、芸術家、学生など)、風俗と慣習(舞踏会、居酒屋、カーニヴァルなど)、公的な場やモニュメント(広場、劇場、公園、墓地など)、そして社会制度(議会、裁判所、学校など)と、パリ論の枠内で考えられうる主題が網羅されている。人物類型の表象を重視した『フランス人の自画像』などと較べると、これは際立った特徴である。
次に、民族誌的なまなざしの鋭さ。当時のジャーナリスティックなパリ論は、パリの明るく華やかな側面を強調する傾向が強い。他方テクシエは、シャン=ゼリゼ、右岸の大通り、劇場など他の著作に見られる話題にも触れるが、同時に監獄、精神病院、救貧院、孤児院など社会の闇の空間にも注意深いまなざしを向ける。そして、そうした社会制度のなかで暮らす人々の習俗と思考を叙述するページは、きわめて精彩に富む。『タブロー・ド・パリ』は、1840年代のパリ(それはバルザックが『人間喜劇』で描き、若きボードレールやフロベールが生きたパリである)をめぐる、ほとんど完璧な民族誌的著作と言ってよい。
第三に、図版の豊かさと鮮やかさ。印刷技術の発達により、当時のパリ論には多かれ少なかれ図版が付されているが、『タブロー・ド・パリ』の図版は他の追随を許さない。木版画の繊細な描線によって再現されるパリの建造物、街並み、広場、流行、生活情景、人々の肖像などは、時に息を呑むほど美しい。図版を見ているだけでもじつに楽しく、教育的な書物なのである。ここには、地方からパリにやって来る人々や外国人に首都の魅力を伝えようとする、いわば観光誘発的な意図が感じられる。ジョアンヌのガイドブックに代表されるパリの観光案内書は、19世紀後半になってから読書市場に流通するのだから、テクシエの著作はその先駆と見なされよう。
第二帝政期にオスマンが作りあげた新しいパリについては、写真、絵画、版画、文学など数多くの証言が残されている。『タブロー・ド・パリ』は疑いもなく、そのオスマン以前のパリを21世紀の読者の眼前に再現してくれる最良の書物である。社会史家、風俗史家、文学研究者、そしてパリの愛好家にとって必携の文献が復刻されるのは、喜びの一語に尽きる。