近年のアメリカ文学史の再編成に伴う変化の一つは、アメリカ西部大衆文学に対する評価であろう。例えば、Robert
E. Spiller等の編集によるLiterary
History of the United States(1948)にはこのジャンルの作品はほとんど取り上げられていない。しかし、それから40年後、その序文の冒頭にSpiller等の文学史の序文のパロディーとも思えるような挑戦的な文章を据えたEmory
Elliot編のColumbia
Literary History of the United States (1988)は、“Literature
for the Populace”と題する1章を設けてアメリカ19世紀大衆文学の再評価を試みている。ここには、例えば、出版された年に30万部を売った最初の「ダイム・ノベル」、Ann
Sophia StephensのMalaeska,
the Indian Wife of the White Hunter (1860)をはじめ、多くの西部を描く作品が取り上げられている。
さらに、1995年に刊行されたSacvan Bercovitch編のCambridge
History of American Literature (第2巻、1820−1865)を繙いてみると、ここでも西部を主題とする多くの大衆小説が取り上げられ、このジャンルが近年の文学史の再編、再評価に重要な役割を果たしていることが理解されるのである。
この一連の動きは、もちろん、フェミニズムや多文化主義の成果を取り入れながらアメリカ文学の枠組みを拡大し、同時にこれまで無視されてきた書き手やジャンルにもきちんとした目配りをすることで、新しいアメリカ文学史を編成しようとする試みを反映するものである。アメリカ西部を主題とする大衆小説も、そのような再編成のダイナミズムの中で、シリアスな研究の対象として再認識されるようになってきたと言えよう。
「西部」は、<アメリカとは何か>という、アメリカ文化史をつらぬく古くて新しい問題と無縁ではあり得ない。むしろ、当然のことながら、「西部」を無視しては「アメリカ」を深く理解することは不可能であると言うべきであろう。「西部」は、西進するフロンティアの向こう側に存在し、つねにアメリカの想像力と欲望をかき立て、移動をくり返す大衆を「アメリカの夢」へと誘惑してきた。カウボーイ、インディアン、ガン・マン、酒場の女、ハンター、開拓地の女たち、シェリフとアウトロー、荒野の牧場、豊壌であると同時に荒涼たる姿で立ち現れるウイルダネスとそこに生活を築こうとする人間、おびただしい数の野生動物、フロンティアの西進(あるいは境界侵犯)がもたらす激しい葛藤——。神話化された「西部」のイメージは現代アメリカの想像力の中に生き残り、アメリカの歴史とアイデンティティを再構築するエネルギーの源泉になっている。そしてこのようなオールド・ウェストとその神話の原型は、20世紀から21世紀にかけて「エイリアン」が息づくSFの世界にまで浸透し、「ニュー・フロンティア」の神話を再生し続ける。
本シリーズPart
Iでは19世紀の代表的な西部大衆小説の作品を選択してみた。ここに収録された作品を再検討、再評価することで斬新なアメリカ文化研究とアメリカ像の構築が進展することを期待したい。
『アメリカ西部大衆小説選集』を推薦します
ジャック・ヒックス カリフォルニア大学デイヴィス校英文科教授
山里勝己教授監修・解説による『アメリカ西部大衆小説選集』は、19世紀と20世紀前半のアメリカ西部に焦点を合わせた長編小説を集めたものである。本選集に収録された作品は、現在アメリカの研究大学で注目を集めつつあるものであり、本選集の刊行は一つの里程標となるであろう。
近年、西部とカリフォルニアを題材とする文学研究がアメリカにおいて注目されるようになってきた。過去10年を振り返ってみても、学部と大学院においてこの分野に関する科目が多く提供されるようになり、数多くの研究論文や研究書が出版され、少なくとも5冊の大部のアンソロジーが出版されている。アンソロジーの多くは本選集に収録された作家たちと同時代人であるブレット・ハートやマーク・トゥウェインから始まるが、ここに収録された10巻は大衆文化やカルチュラル・スタディーズの視点から研究を補強するものになるだろう。このようなかたちで作品が復刻出版されることは、西部大衆小説に対する近年の関心の高まりと研究の進展に対する大きな貢献と言うべきである。
私たちはさまざまな理由で本選集に収録された小説を読む。まず第一に、この10巻はアメリカ合衆国文学史においても重要なテクストなのである。つまり、これらの小説は多くの読者に読まれ、国民的神話を形成する一助となったものなのだ。「ホレイショ・アルジャーの物語」とは、努力することで誰でも成功することができるという「アメリカの夢」を語るものであるが、これは19世紀から20世紀初頭にかけて活躍した人気作家ホレイショ・アルジャーの100編を越える作品群を一括して呼ぶときに使われる言葉である。アメリカ西部大衆小説選集に収録された作品の多くは、ホレイショ・アルジャーの物語よりも時期的に早く、物語もフロンティアとアメリカ西部の形成に焦点を合わせたものが多いが、大衆的な人気という点ではアルジャーの作品に決してひけをとらないものばかりなのである。
例えば、アン・S・スティーヴンズの『マラエスカーー白人猟師のインディアン妻』(1860)は、ビードル・アンド・アダム社が出版した最初の「ダイム・ノベル」であるが、初年度だけで30万部売れるほどの人気を博したものである。これはまことに驚くべき数字であろう。これ以降、多くの作家が19世紀の歴史上の人物を伝説的人物像に書き換え、アメリカ的想像力の形成に重要な影響を与えたのであった。例えば、ネッド・バントラインが大衆小説(ダイム・ノベル)においてバッファロー・ビルのファンタジーを創り上げたように、ジェームズ・ストレンジ・フレンチはデイヴィー・クロケットの伝説を創造し、エドワード・エリスはキット・カーソンを創り出したのであった。これらは全員がフロンティアのヒーローであり、アメリカ大衆小説の中で西部開拓の伝説的な人物像として描かれる存在である。
大衆小説の中には、実在のインディアンに焦点を合わせたものがある。例えば、ショーニー族の予言者エルクスワタワを描いたジェームズ・ストレンジ・フレンチの『エルクスワタワーー西部の予言者』がその一例である。フレンチも、『森のニック』を書いたロバート・モンゴメリー・バードも、白人が西部に移動するにつれて土地を追われ殺害された先住民たちに深い共感を示すことはなかった。バードに言わせれば、インディアンは「無知で、凶暴で、卑しく、残忍」な存在であった。先住民と西部に浸透するユーロ・アメリカンの戦いを描いたこのような初期の作品は、アメリカの国家的野心の結果としてもたらされた恥ずべき遺産について読者に多くのことを語りかける。
アルフレッド・ヘンリー・ルイスの『ウルフヴィル』(1897)のような作品に見られるように、多くの大衆小説には荒涼たる西部のフロンティアの町が描かれ、そこにはならず者や無頼の徒、ラバ追い、六連発銃を手にした保安官(例えば伝説的な人物バット・マスターソン)などが登場した。これらは社会や家族や教会や裁判所のような、文明を遠く離れた新しい領域のイメージを形成した人物像であった。
本選集に収録した長編ロマンスは、そのひとつひとつが大衆の想像力を虜にし、アメリカの白人の想像力に影響を与えたものばかりである。つまり、白人たちは自らを「処女地」(ヴァージン・ランド)と「野蛮な」インディアン諸部族を征服しつつ、とどまることなく西部に向かう運命を課せられた人間であると想像するようになった。このような小説がデイヴィー・クロケットやダニエル・ブーンやバッファロー・ビルを荒唐無稽に描いたとしても、西部の典型的人物像(アーキタイプ)としてのアメリカン・カウボーイの神話はこのような物語の中から生まれてきたのであった。好むと好まざるとにかかわらず、この哲学はアメリカの日常生活にいまもなお生きている。そして、例えば、『リン・マクリーン』を書いたオーウェン・ウィスターは、高潔で寡黙、そして孤独なカウボーイの伝説を創造した作家として、アメリカ文学史と文化史においていまでも重要な存在なのである。
本選集に収録された小説は、アメリカに内在する自然環境と人間との葛藤を早い時期に描いたものでもある。この葛藤は現代に至るまで連綿と続くものであるが、「処女地」は人間を鼓舞する壮大で無垢なものとして描かれるかと思えば、その一方で自然は不安定で恐ろしいものであり、反人間的な存在としてとらえられる。自然環境は、暗い森、危険な砂漠、竜巻、恐ろしい吹雪、荒れ狂う川の流れ、大平原の火事として表象される現象でもあった。ホーソーンの「若きグッドマン・ブラウン」に見るように、ピューリタンにとっては自然は悪魔の巣窟であった。この後、20年ほど経過して出版されるようになった西部大衆小説では、森や山脈や砂漠や川は人間に畏敬の念を抱かせるものであると同時に、<マニフェスト・デスティニー>という思想に約束された国家的「宿命」に対する大きな障害として描かれるようになる。
要するに、本シリーズに収録された小説は、しばしば若い国家としてのアメリカをテーマとし、読者はそこに描かれた冒険や悲劇や栄光に満ちた勝利に心を揺さぶられ誘惑されたのである。西部を描く小説は大衆の現実逃避のためのファンタジーでもあったが、それだけにとどまらず、それはジャーナリストのホレス・グリーリの有名な言葉「若者よ、西に行け!」(Go West, Young Man!)に耳を傾けた者にとっては、西に向かうための教科書であり、実用的なガイドブックの役割をも果たしたのであった。本選集に収録された作品は、我々がどこから来て、いかにしていまの我々が誕生したかを教えてくれる地図のようなものなのである。
(山里勝己訳)