コロンブスのアメリカ大陸到達400周年を記念して、1893年にシカゴで開かれた世界コロンブス記念博覧会は、19世紀最後のそして最も大規模な万国博覧会であった。博覧会は大きな反響を呼び、5月1日から10月31日までの期間中に、延べ2700万人以上の人々が会場を訪れた。それは当時のアメリカの全人口のほぼ4分の1に相当する。建築家チームは博覧会の用地としてジャクソン・パークを選んだ。博覧会場は全体で280万㎡(東京ドーム60個分)という広さであった。造園技師のフレデリック・ロウ・オルムステッド――彼はそれまでにもニューヨークのセントラル・パークをデザインしていた――は、このジャクソン・パークの自然景観に加え、ミシガン湖から水を引いた潟湖と運河のシステムをつくり上げた。会場には、「ボザール様式」(1816年に設立されたフランス国立美術学校の教育法として採用された古典主義に基づく建築様式)で建てられた14の主要建物をはじめ、全部でおよそ200の建物が建設され、そこで6万5000もの展示物が供された。また期間中に200以上の会議、およそ6000の講義が行われ、約70万人が参加した。建物の多くは、入場者の目を引くために、まばゆいばかりの白色の化粧しっくいが施された。そのため、その一帯は「ホワイト・シティ」と呼ばれるようになった。
1890年代は、アメリカが農業社会から工業社会へと移行するために苦悩していた時代であり、また技術と消費の現実に直面していた時代でもあった。アメリカがすでに国際的リーダーであると考えられていた二つの分野、すなわち商業と技術の分野は、数千もの展示物によって、また「グランド・ベイスン」を囲んで中央に配された電気館や産業技術・学芸館――それらはアメリカ社会の前代の二つの基幹産業を象徴する農業館や機械館と対置されていた――によって大々的に称賛されていた。展示物には、世界最大のコンベヤー・ベルト、博覧会のための大規模な発電所、レミントンのタイプライター、ティファニーのステンドグラス、70トンもある望遠鏡、蓄音機、その他数千もの技術革新があった。そればかりでなく、中には、すべてピクルスでつくられたアメリカの地図、穀物とオレンジでつくられた「自由の鐘」の模型、2万2000ポンドの重さの「怪物チーズ」といった風変わりな展示品もあった。
こうした展示物や会議の教育的あるいは商業的目的のほかに、1893年のシカゴ博は歓楽区域を別個に持った最初の万博であった。出し物は有名なミッドウェイ遊園地に集中していた。それは博覧会の他の場所の公園のような雰囲気と教育的性格を妨げないためであった。最も評判だった出し物の一つに「カイロの通り」がある。そこでは「フーチー・クーチー」というベリー・ダンスが紹介されたが、保守的な人たちの多くからはひんしゅくを買うものであった。またアメリカ人のジョージ・フェリスが発明した観覧車が初めて万博に登場した。「フェリス・ホイール」と呼ばれたこの観覧車は、直径75m、40人乗りのゴンドラが36個、すなわち1400人以上を一度に乗せることができる大観覧車であった(ちなみに、現在の横浜みなとみらいにある観覧車は480人乗り)。そのほかにも「東インド市場」「電気風景館」「アラブ村」などが展示された。
博覧会はまたおびただしい数の技術革新を紹介する場でもあった。それらはアメリカのみならず世界規模において、現代の生活や文化において欠くことのできないものとなっている。たとえば、最初の高架電気鉄道、可動式歩道、フェリス・ホイール、あるいは最初の絵はがきと記念切手を実現したアメリカ郵便事業、あるいは挽割小麦、パブスト・ビール、ジューシー・フルーツ・ガム、炭酸飲料、ハンバーガーといった消費財も、この博覧会で初めてアメリカに紹介された。博覧会は、アメリカに「コロンブス・デー」という新しい休日を提供し、学校の生徒たちには「国旗に対する忠誠の宣誓」という愛国心を植え付ける新たな方法も提供した。また博覧会は、「ラグタイム」という新しい音楽の誕生にも立ち会うこととなった。
「ミッドウェイ」でのエンターテインメントと娯楽、またその近くで大人気となったバッファロー・ビルの「ワイルド・ウエスト・ショー」は、アメリカ全土に永続的な遊園地やテーマ・パークのモデルを提供した。たとえば、20世紀の変わり目につくられたニューヨークのコニーアイランド、そしてのちのディズニーランドである。博覧会のもう一つの遺産は、「ホワイト・シティ」がアメリカにおけるその後の「シティ・ビューティフル」と称する都市計画運動の発端となったということである。それは、建築家、美術家、技師、造園家たちが初めて協同して、現在、一般的に「ボザール様式」と呼ばれているスタイルによって、理想のモデル都市を創造しようと試みたものであった。
さらに、シカゴ博と関連して、世界大会オーグジリアリは224の会議を実施した。会議のテーマは、農業、教育、禁酒、医学、商業、金融など多岐にわたった。女性代表者会議(国際女性評議会の第2回目の会合でもあった)や、1週間にわたる世界宗教会議も開催された。それは世界中の宗教指導者たちが一堂に会して、各々の宗教的信条を討議した初めての会議であった。そのほかにも、労働者会議には2万5000人が参加、またオリヴァー・ウェンデル・ホームズ、チャールズ・ダドレー・ワーナー、ウォルター・ベサントが議長を務めた文学会議では、ジョージ・ワシントン・ケーブルによる「小説の効用と方法」、ハムリン・ガーランドによる「小説におけるローカル・カラー」という注目に値する発表があった。またフレデリック・ジャクソン・ターナーの「アメリカ史におけるフロンティアの意義」という独創的な研究は、シカゴ博に合わせて開かれたアメリカ歴史学会で発表され、フロンティアの終焉を宣言した1890年の国勢調査に歴史的な意味づけを与えた。
今回、復刻に用いた原本は、コロンブス記念博覧会についての最も重要で完全な報告書の一つである。原本は、1897-1898年にニューヨークのアップルトン社から、4巻本として500部限定で出版された。したがって、現在では入手はきわめて困難である。博覧会の理事会は、「コロンブス博覧会の主な出し物と重要なイヴェントの記録を保存することを目的に」同書の出版を委託・監督した。そして理事会は、博覧会の理事長、事務局長、役員、マネジャーたちの報告書のみならず、総合本部内の議事録や文書などの記録ファイルまでも利用できるよう便宜を図った。
第1巻は博覧会の歴史、計画、組織を扱い、第2巻と第3巻は主な部門と展示物の報告書、第4巻は期間中に開催された主要会議について、および参考文献と全4巻の詳細な総索引が収録されている。また本書には数百点に及ぶ図版――そのうち121点は全ページ写真――が掲載されている。
ロッシター・ジョンソン(1840-1931)は、主として古典・歴史文学の分野で幅広く活躍した著作家であった。ジョンソンはまたいくつかの重要な百科事典の編集にも携わった。たとえば、『アメリカン・サイクロペディア』や『アニュアル・サイクロペディア』などである。また『サイクロペディア・オブ・アメリカン・バイオグラフィ』や、よく知られた古典のポケット版シリーズでは編集長を務めた。