国際女性評議会(ICW)は、1888年にワシントンで開かれた全米女性参政権協会(NWSA)の集会において、スーザン・B・アンソニー、メイ・ライト・シューワル、フランシス・ウィラードたちによって設立された。そして国際会議が5年ごとに、全国集会が3年ごとに開かれることになった。ICWの主要目的は各国の全国女性評議会(NCW)を通じた世界各国の女性の地位向上にあったが、当初は保守的なメンバーに配慮して女性参政権を要求するものではなかった。そのため国際女性連盟(IAW)のようなもっとラディカルな組織が生まれることになった。1899年にICWは、「平和と国際調停」や「家庭問題の法律」などのような国際常任委員会を組織して、より実質的な課題に取り組み始め、参政権から健康に至るまで幅広い範囲の問題を取り扱うようになった。
ワシントンにおける設立集会の後、引き続き会議は次のような都市で開かれた――1893年シカゴ、1899年ロンドン、1904年ベルリン、1909年トロント、1914年ローマ、1920年クリスティアナ(オスロ)、1925年ワシントン、1930年ウィーン、1934年パリ、1936年ドゥブロブニク、1938年エディンバラ。第二次世界大戦後は、1947年にフィラデルフィアで再開された。ICWとその常任委員会は、1920年代には国際連盟と、そして第二次世界大戦後は国際連合あるいはその他の政府間機関や非政府組織と協働するようになった。70か国以上からなるICWの本部は、1963年以降パリに置かれている。その目的は以下のようなものである。すなわち、女性の地位を世界規模で向上させる、すべての意思決定機関での女性の全面参加を保証する、女性に対するいかなる形の差別・暴力・嫌がらせも排除する、男女の同一労働同一賃金を保証する。ICWは今なお、地域教育や健康計画に焦点を合わせて全世界的に女性を組織しつつある。
今回のリプリント出版は、初期の最も重要な会議の報告書を対象としたものである。すなわち、(1)1888年のワシントンにおける設立集会、(2)1893年シカゴの世界コロンブス記念万国博覧会の期間中に開催された第1回会議、(3)影響力のあった1899年のロンドンでの第2回会議、以上の三つである。
ワシントンの設立集会ではスーザン・B・アンソニーが議長を務め、フランス、イギリス、インド、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、カナダ、アメリカからの49人の代表者だけでなく、53もの全米的な女性組織が参加した。そこでICWは、すべての教育機関の女性への自由開放、男女両性への職業訓練、同一労働同一賃金、男女のモラルの同一基準などを求める宣言を採択した。そしてそれに関する全国評議会を世界中に設立することを最初の仕事とした。
5年後のICWの会議は、1893年のシカゴ・コロンブス記念万博の世界大会オーグジリアリの女性分科会と関連し、「世界女性代表者会議」(WCRW)として行われた。会議はメイ・ライト・シューワルが議長を務め、数千人もの人々が参加した。会議はアメリカなどにおける女性運動の発展を取り上げ、またフランス、カナダ、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、デンマークにおける全国評議会設立へ向けてさらなる前進を遂げた。
1899年ロンドンでの第2回会議までに10の全国評議会が設立された。第2回会議では28か国の代表者が女性運動の進展状況を報告した。この会議ではメイ・ライト・シューワルと共にアバディーン伯爵夫人が議長を務めた。会議の7巻の報告書は、世紀転換期における女性の地位を明示し、運動によって達成された膨大な量の業績を提供している。ヴィクトリア女王も約300人の代表者たちに会うために、ウインザーへ特別列車を用意させた。
これら初期の三つの会議における講演者には、次のような人たちがいた。スーザン・B・アンソニー、エリザベス・ケイディ・スタントン、メイ・ライト・シューワル、イザベル・ボジェロ、フランシス・E・ウィラード、フランシス・E・W・ハーパー、メアリ・H・ハント、ジュリア・ウォード・ハウ、イザベラ・ビーチャー・フーカー、J・エレン・フォスター、ルーシー・ストーン、アイダ・A・ハーパー、ジェーン・アダムズ、アナ・ジュリア・クーパー、アナ・ハワード・ショウ、レイチェル・エイヴェリー・フォスター、メアリ・A・リヴァモア、ヘレン・ハミルトン・ガーデナー、マティルダ・ジョスリン・ゲージ、クララ・バートン、アバディーン伯爵夫人、そのほかにも初期女性運動の多くの著名活動家たちがいた。